![]() 黒、赤星因徹 対 白、本因坊丈和 → 「吐血の局」 白12からは開発されつつあった型で、黒33、35は「井門の秘手」だったという。 白36で38(T-18)は黒36出(O-17)、白押さえ(O-18))、黒ハネ(Q-19))のコウ。また白36でヌキ(R-19)も黒ハネ(T-18)でコウだ。 白44では先に(S-11)と三本サガリのワタリの筋が機敏。 黒49と二子を取って優勢だが、黒57ではP-3コスミがまさる。黒61は下辺星下(K-3)の大場を占めるところの説がある。白64で細碁。 白68、70、80が「三妙手」として知られる。 白68、70はここで先手を取って左辺にまわる意図。 黒71を手抜きは白S-13と動かれて味が悪い。 黒73ではD-18とツケてヨセてよく、黒79では80(D-10)が簡明。 白92ではE-10出が厚く、黒95でC-12と出て生きるのは上辺の黒が苦しい。 強引な白の手に、黒は次第に追い詰められていく。 黒107はやや無理で、白108以降は丈和ペース。白120が勝着だ。 246手完、白中押勝 |
○本因坊 丈和(ほんいんぼう じょうわ、天明7年(1787年)
- 弘化4年(1847年))
十二世本因坊、名人碁所。法名は日竟。本因坊元丈門下。元の姓は戸谷、後に葛野(かどの)。
丈和の生地は明らかでなく、信濃、武蔵国、伊豆、江戸などの説があるが、伊豆説が有力。幼名は松之助。16歳で初段。
文化4年(1807年)に庄内藩士長坂猪之助と二十一番碁を打ち(丈和定先)、12局目まで8勝4敗で先相先とした。当時元丈の跡目には丈和の1歳上の奥貫智策が据えられていたが、智策は文化9年(1812年)に27歳で夭逝、文政2年(1819年)に丈和が跡目となる。その後33歳で六段。
文政10年(1827年)40歳の時、七段に進み、元丈の跡を継いで十二世本因坊丈和となる。翌年八段。天保2年(1831年)に、ライバル井上幻庵因碩を策謀によって降し、名人碁所に就く。
長男の戸谷梅太郎は、水谷琢順の養子となった後に12世井上節山因碩、三男は明治期方円社2代目社長の中川亀三郎。長女はなは本因坊秀策に嫁いだ。
●赤星因徹(あかぼし いんてつ、文化7年(1810年)
- 天保6年8月28日(1835年10月19日))
肥後国出身、10世井上因砂因碩門下、七段上手。幼名は千十郎、後に因誠、因徹。
井上幻庵因碩の跡目と目され、松平家碁会において本因坊丈和と対戦して敗れた「吐血の局」は有名。26歳で夭逝。
肥後国菊池郡生まれ。12歳のときに因砂因碩に入門し、因誠と改名。15歳頃からは幻庵因碩の教えを受け、18歳三段時に幻庵の入門時の名前因徹を名乗る。
天保5年(1834年)七段。同年の6月、7月に丈和と先番で2局打ち、ともに打ち掛けながら黒優勢であった。この時期に幻庵との先番4局も因徹勝ちとしている。
名人就位を目指す幻庵は、天保2年に名人碁所に就位していた丈和引き摺り降ろし策として、天保6年7月19日に老中松平周防守宅で開かれた碁会にて、お止め碁となっていた丈和に因徹を対戦させる。
3回の打ち継ぎを挟んで四日がかり27日まで打ったこの碁は、序盤は黒の因徹が井門の秘手と言われた大斜定石の新手を繰り出して優勢に進めたが、その後「丈和の三妙手」などで挽回し丈和勝ち。
この時既に重度の肺結核を患っていた因徹は、投了後吐血したと伝えられており、因徹吐血の局として知られる。
またこの局中、幻庵は某寺に依頼し、不動明王に護摩を焚かせていたともいう。因徹はその2ヶ月後に死去。