風鈴会/一般講座資料 (2009年7月25日分)


「本因坊秀策から学ぼう」 

「先番:本因坊秀策 対 白番:太田雄蔵」

嘉永2年(1848)10月8日

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先番:本因坊秀策 対 白:太田雄蔵

以下、石田芳夫九段の解説より抜粋。
左辺、掛かりを軽く見て黒が上辺を打てば、白も20と締まって黒21の動き出しを促し、左辺を打つ調子を求める。
黒17で挟まれた一子を動くのは、上辺をそっくり地にされそうだし、白20で白21とハネるのは黒20に入られて甘くなる。]

黒31、白32はどちらも形。
黒31で36とノゾいて応手を問うのもある。
実戦は黒37と継いで手厚く、白も38の走りに回って、いいかげんの分かれ。

黒41のハザマには受けずに白42と詰め、白48のハネで下辺を囲いに出た。注文を付け合い、腹を探り合っている。

黒63とつけて、あわよくば左辺の白と絡もうとする。
捌きの手掛かりを求める白64のノゾキに黒65と反発し、黒69が緩まぬ形。

白90はコウを争うつもりではなく、手順の利かしというべきもので、白90で白94と押さえても、黒99までとなるところである。
黒105でつぐと、白105のハネを利かされるので黒105は当然の反発。
黒が切らせようとし、白は継がせようとする今後の駆け引きが、本局の見所である。

黒は127とツケて絞るなどあくまでも継がない方針を貫ぬき、ついに白152と、切らされるはめになった。

白152と切ると、外からの利かしに受けなければならず、かえって立場が弱くなる。その弱みにつけこむ黒153以下の手順は、まったく間然とするところがない。

黒167と穴を開けられ、下辺のコウは争えず、黒185にも白186の屈服を予儀なくされ、つらい限りである。白152と切って取っても攻め取りでは小さい。

黒191と押さえて勝負あった。黒4目勝ち

●本因坊 秀策(ほんいんぼう しゅうさく、文政12年5月5日(1829年6月6日) - 文久2年8月10日(1862年9月3日))

江戸時代の囲碁棋士。備後国因島(現・広島県尾道市因島外浦町)出身で俗姓は桑原。幼名は虎次郎。法名は日量。
1837年(天保8年)に出府して本因坊丈和に入門、本家の名字である安田を借り栄斎を名乗る。

1839年(天保10年)に初段。翌1840年(天保11年)に秀策と改名し、二段昇段。
翌1841年(天保12年)三段昇段、さらに翌1842年(天保13年)四段昇格する。
1846年(弘化3年)、井上幻庵因碩と数度の対局を行い、その中の一局は「耳赤の一局(みみあかのいっきょく)」と呼ばれ古今の名局と名高い。
1848年(嘉永元年)に正式に第14世本因坊跡目となり同時に六段昇段、また丈和の娘・花と結婚する。
また同年から御城碁に出仕し、それ以後19戦19勝無敗の大記録を作った。秀策最強説の有力な根拠がこれである。

1862年(文久2年)、江戸でコレラが大流行し本因坊家内でもコレラ患者が続出した。秀策は患者の看病に当たり、当人が感染しそのまま34歳で死去した。
棋力のみならず極めて人格に優れ、本因坊道策(前聖)と並び棋聖・碁聖(後聖)と称される。歴史に燦然と輝く業績を残し、後の囲碁ファンに与えた影響は多大である。


○太田 雄蔵(おおた ゆうぞう、文化4年(1807年) - 安政3年(1856年))

江戸時代の囲碁の棋士。江戸生まれ、安井門下、七段上手。天保四傑と呼ばれる一人。
気合いがよく華麗な碁と言われる。本因坊跡目秀策との三十番碁が著名。

江戸の商家に生まれる。幼名は川原卯之助、後に良輔、その後太田姓を名乗り、雄蔵とした。
幼児から7世安井仙角仙知門下で学び、3歳下の安井算知 (俊哲)と競い合う。また8世安井知得仙知の二女を妻とした。
天保9年(1838年)に六段。天保14年(1843年)に、既に七段であった本因坊跡目秀和との先合先白番でジゴとした碁は佳作として知られる。
嘉永元年(1848年)に、伊藤松和、林柏栄門入とともに七段に進む。

秀策との初手合は、天保13年(1842年)秀策14歳二段、雄蔵36歳六段の時の二子局で、雄蔵勝ちだった。この後秀策とは互先になるまで50局ほどを打っている。


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