碁悦同衆 (2000年版)

  ●毎月1回、「殺し屋K四段」が囲碁関連の雑誌や新聞の記事より
   面白そうな内容をピックアップして紹介していきます。

  ●「碁悦同衆」のタイトルは江崎誠致著の囲碁エッセイ集より引用
   しました。もとの熟語「呉越同舟」をもじったようですが味のあ
   るアレンジです。

第1回は数年前「囲碁クラブ」に掲載された推理小説作家、内田
康夫氏の記事を紹介します。
「これから囲碁をやめたい方へ」
内田康夫(作家  囲碁六段)

  囲碁を始めたい人のための講座というのはあるけれど、囲碁をやめたい
人のための指導書というのは見たことがない。考えてみると碁を始めるの
も難しいが、碁から足を洗うのはもっと難しいのだから、そういう人のた
めの講座や教則本があったってよさそうなものである。

  碁打ちは親の死に目に会えない・・・などというが、僕の経験からいっ
て、それはほとんど正しい。現に僕がそうだった。僕の父親は千葉県柏市
の病院で息を引き取ったが、病院の近くに碁会所があって、見舞いに行く
途中、ガラス戸超しに熱戦を見ているあいだに父親は死んだ。碁好きの父
だったから、文字どおりもって瞑すべしだと思っているが、あまり寝覚め
のいいものではない。

  そのことがあって、碁をやめようかと思った。しかし、どうすればやめ
られるのか、方法が分からない。煙草吸いが煙草を、酒飲みが酒をやめる
のとどっちがつらいものかといえば、碁をやめるほうがつらいに違いない。
第一、酒を飲まないし、煙草もさほどのことはない僕の場合は碁をやめる
のは、空気を吸うなというに等しかった。

  碁以外の対象に熱中すればいいという説もある。たとえば仕事・・・
冗談でしょう。仕事と引き換えにやめるなどは、身代金と引き換えにカミ
さんを渡す(どういう意味じゃ?)のより、はるかに割が合わない。それ
じゃバクチはどうか。オンナ(オトコ)はどうか。そんなふうに比較対象
するものを並べ挙げると、かえって囲碁がいかに高級かつ安全であり、し
かも何より安上がりな趣味であるかが立証されて、やっぱり碁はやめるべ
きではないという結論に達するのである。

  とはいえ、囲碁に没入する時間が、大して長くもない人生のかなりの部
分を侵食していることは、まぎれもない事実だ。プロ棋士はともかくとし
て、アマのトップクラスの碁打ちを見ていると、この天才的頭脳の持ち主
が他のジャンル・・・たとえば数学だとか化学だとか政治だとか・・・に
進出していたら、いったいどうなっていただろうと思う。ひょっとすると
日本、いや人類社会のために思いがけない貢献をしていたかもしれない。
だとすると、囲碁はあたら有能な人材を遊びの世界に引きずり込んだ、反
社会的な存在ということになる。もっとも、囲碁をやらなければ大物に
なっていたかどうかは保証のかぎりではないと言ってしまえばそれまでだ
が、しかし、菊池康郎さんをはじめとする五強だの七強だのと言われる天
才たちが、他の道に専心してタダのおじさんで終わってしまうとは、どう
しても考えられない。それとも、囲碁的才能というのは特別なものだろう
か。あるいは、碁を打つことによって、思考力や計算能力が磨かれるメ
リットのほうが大きいとも考えられる。

  推理小説を書いているとき、ときどき「あ、これは囲碁的発想だな」と
思うことがある。たとえば推理小説につきものの「伏線」などは、まさに
「布石」そのものだし、読者の盲点を衝くような仕掛けは「ウッテガエシ」
だとか「石の下」の意外性とあい通じるものがある。以前、週間「碁」に
連載されていた林義道さんの「囲碁心理学」の講座で、右脳と左脳の働き
について書いてあったが、碁を打つことによって、いつのまにかそういっ
た能力に磨きがかかるということがあるのかもしれない。そうしてみると、
囲碁は有害どころか、僕の商売上、大いに役立っていることになる。

  近頃はファミコンゲームなどというものが大流行して、子供ばかりか、
いい歳をした大人どもまでが、ひまさえあれば熱中している。あんなもの
に較べれば、囲碁のほうがはるかに優れものである。第一、ファミコンが
いかに上達したって、せいぜい指の運動と反射神経を養うくらいの効果し
かない。ファミコン初段、ファミコン五段といった具合にテクニックが昇
格するわけのものでもない。その時その時の刹那的な面白さを追及するだ
けで、蓄積されるものは何もない。現に、最近の調査によれば、学童の運
動能力や体力はここ数年、顕著に低下してきているそうだ。原因はいろい
ろあるのだろうけれど、その一つがファミコンゲームにあることは間違い
ない。そこへもってきて思考能力まで低下するようなことにでもなったら、
明日の日本を担う彼らの行く末が心配でならない。ゲームメーカーにはそ
こまで責任を持つつもりがあるのだろうか。

  こう考えてくると、わが国伝統のゲームである囲碁・将棋を家庭や学校
で見直して、学童に大いに奨励するのが正しい教育のあり方のような気が
してくる。いやはや、これでは当分、囲碁から足を洗うどころか、後進を
育てる努力をしなければならなくなりそうだ。



第2回は3年ほど前「朝日新聞」の「おやじの背中」に掲載され
た女流棋士、梅沢由香里プロの記事を紹介します。
梅沢プロは最近四段に昇段し絶好調。才色兼備の花形棋士です。

「囲碁でなければ優しかった」
梅沢 由香里(プロ棋士)

 碁石に触ったこともない人が、囲碁セットを買ってきた。「子供の日
のプレゼントだよ」って。小学校一年生のとき。なぜ、碁だったのか、
今も分からない。でも、それがすべての始まりだった。 

 二人して近所の碁会所に通った。一年もしないうちに、私の方が強く
なった。二年生で初段、三年生で四段、四年生で五段。「お嬢ちゃん、
プロになるの?」と、よく言われた。父はその気になっていたのかもし
れませんね。 

 平日はピアノ、スイミング、習字。土日は碁会所に連れていかれる。
遊びたい盛りに、嫌でしょうがなかった。小学校を卒業するころには、
腕自慢が集まる東京・下北沢の碁会所に通い始めた。 

 大会でも碁会所でも、父がついてきて、少し離れたところから、こわ
い顔をして見てるんですよ。負けると、帰りの電車の中で怒りだす。 

 「どうして負けたんだ」 

 「弱いからよ」 

 「反省しないと強くなれない。負けた理由を説明しろ」 

 点数制の碁会所で負けが込んでくると、持ち点が下がる。だけど、次
に行ったときに、「うちの娘はこんなに弱いはずがない。元の持ち点に
戻してくれ」と新しいカードをつくらせる。強い人と合わないハンディ
で無理やり打たせて、負けるとまた怒る。泣きながら帰ったことも多い。

 囲碁が絡まないときは、一人娘をかわいがる普通の優しい父親だった。
束縛されるのが大嫌いなタイプ。慶応大を出て、いったんは会社勤めをし
たが、行政書士や社会保険労務士の資格をとって事務所を構えた。好奇心
が旺盛で旅行好き。何でも知っていて、大学のレポートを書くときの相談
相手でもあった。

 父は夢を託していたんだ、と思う。でも、私はプロ試験に落ち続けた。
日本棋院のプロ養成機関の院生は十九歳が上限。大学一年のときに院生を
やめ、「もう普通の大学生になろう」と決めた。それまで、父の言うがま
まだった私には、最大の抵抗だった。 

 大学三年の六月、父は病死した。四十八歳。無理やり囲碁に駆り立てた
父と、普段の父。思い出の中に二人の別人がいるような気がする。碁はあ
の幼い日の記憶につながる。父が死んで時が流れ、そんな抵抗感も薄らい
できた。「一度だけ本当の努力をしてみよう」と、思えるようになった。

 翌年の年末、プロ試験に合格した。十五回目の挑戦だった。父のお陰で
今がある。でも、純粋に「囲碁が好き」って思えるか、正直に言うと、ま
だ、ちょっとあやしい。 

*****

 慶応大学湘南藤沢キャンパス環境情報学部卒。日曜日のNHK教育テレビ
「囲碁の時間」の聞き役で、囲碁ファンの人気を呼ぶ。

昭和48年10月4日生。東京都。慶応大学湘南藤沢キャンパス環境情報学部卒。
加藤正夫九段門下。平成8年入段。平成12年6月四段。


 


第3回は第55期本因坊戦でビッグタイトルを奪取した王銘エン
プロの記事を朝日新聞「ひと」より紹介します。

「単純で粘り強さに欠け、

     勝負師には向いていない性格です。」
     おう・めいえん(新本因坊)

 タイトル戦初登場で趙善津本因坊を四勝二敗で破り、十二人目の本因
坊になった。本因坊史上初の十連覇を成しとげた趙治勲名人や宇宙流の
武宮正樹九段、コンピュータの石田芳夫九段ら個性豊かな先輩と比べて
も、異色ぶりではそん色ない。

 まず、師匠がいない。だから、師匠の家に住み込んで兄弟子にもまれ
ながら修業した経験がない。「十四歳で台湾から来日したとき、母親
(72)が一緒だったのが大きな理由です」

 第二に、独学で実力をつけたからか、常識にとらわれない柔軟な手が
多い。「勉強が足りないので、他人が十分に研究ずみの戦法をさけてい
るだけです」と謙そんする。
 色紙や扇子に揮ごうする言葉は「幅」と「押」。こんな文字を書く囲
碁棋士はまずいない。それもサッカー日本代表チームの元監督・加茂周
さんの「ゾーン(幅)プレス(押)」を自身の囲碁理論に借用する要領
の良さである。

第三が囲碁界きっての愛妻家。「趣味は女房孝行です」と言ってはばか
らない。妻の劉黎児さん(43)が明かす。「挑戦者に決まった時、
『七番勝負では一局打つのに前後四日間も家を空けて、きみの話し相手
ができない。うれしいような悲しいような』と言ってくれたのよ」

 劉さんは台湾の有力紙「中華時報」の東京支局長だ。妻が政治経済関
係の取材に奔走するジャーナリストであるのも珍しい。新本因坊誕生の
原稿を台湾に書き送ったのも劉さんだった。

 出張すると一日三回は妻に電話をかける。妻が主要国首脳会議
(サミット)取材で沖縄に飛んだ時にはマイカーで羽田空港に送った。
 台湾南部の台南市に生まれ、裁判所職員だった父親に囲碁を手ほどき
された。「台南は日本でいえば京都。来日して二十五年になりますが、
ぼくは純台湾人です。

*******

昭和36年11月22日生。50年11月来日、同年院生。52年入段、
平成4年九段。54年留園杯優勝、59年棋道賞「新人賞」受賞。
60年「殊勲賞」受賞。平成元年、3年俊英戦優勝。
鄭銘コウ九段、銘g七段は実弟。 (東京都中野区)

   


第4回は3年ほど前「朝日新聞」の「おやじの背中」
より武宮正樹九段の記事を紹介します。

「自分に素直に」染みついてる
      武宮 正樹(プロ棋士)

 父は東京の下町、新小岩で医院を開業していました。鹿児島の奄美
大島出身で、6人兄弟の長男。弟の父親代わりもしていました。心に
熱いものを持っていましたね。家にやくざが大けがして飛び込んで来
ると「そんなことをしていてはだめだ」と説教したとか、学校の貧し
い友人が来るとお金を取らないとか。

 父が僕に碁を教えたのは、8歳のとき。学校一のわんぱく坊主でね。
学校に早く行って校庭を独り占めして、家に帰ってくるとランドセル
を台所にほっぽりだして、暗くなっても帰らない。「碁をやれば少し
は落ち着くのではないか」と思ったんです。

 夕方になると、遊んでいるところまで来て碁会所に連れて行かれた。
僕が打つと、横について棋譜をすべて採っていた。それが何冊にもなっ
た。すごい父です。9歳か10歳の時、プロの先生が新小岩に碁の指導
に来たことがあって、「この子は才能がある。プロにしたらどうです
か」と言われた。それからプロ入りを考えたらしいんです。

 まわりはみんな反対だった。学校の先生も親せきも友人も。母も大
反対。勉強もまあできたし、上は姉2人で1人息子。後継ぎに考えて
いた。情熱家だけに父は悩んで、無意識に夜中、街をふらふら1人で
歩いたことが何回もあったようなんです。

 結論としては「13歳までにプロになったら進む。だめだったら学校
の方に専念する」と決めた。歴代のタイトル保持者たちを調べた結果
です。僕は1月1日生まれで、その前年の夏ぎりぎりでなれました。
運命といえば運命です。父の父も碁が好きで仕事に失敗したことがあ
るそうで、父の母は「生まれてくる子には碁をさせるな」と言い残し
ていたそうです。でも父は碁のよさを分かっていた。

 「他人に迷惑をかけなければ、自分の思ったようにしなさい。言わ
れて自分が悪かったと思えば、そこで改めればいい」。僕は今朝何を
食べたかも覚えないんですが、父が言ったこの言葉は体に、精神に染
みついています。これは碁だけでなく、宇宙すべて、人生すべてに通
じると思います。こう打つと失敗するのではとか、ばかにされるので
はとか、大人になればなるほど自分に素直になれない。なかなかでき
ないんです。

 母はプロになったあとも「対局が心配で仕事が手につかない」と言っ
ていました。僕も息子がプロになるリーグ戦の対局の日は、本当に心
配でどうにもならなかった。1日が早く終わらないかと。

*******

 たけみや・まさき 棋士。元名人、元本因坊。「宇宙流」と称され
る豪快でスケールの大きい棋風で知られる。

昭和26年1月1日生。東京都。田中三七一七段に師事。40年木谷九段
に入門。同年入段。石田芳夫、加藤正夫と木谷門三羽烏の一人。
   




●第5回は2年ほど前の「NHK囲碁講座」に掲載された
   小林泉美四段の記事を紹介します。
   小林四段は小林光一十段・天元の長女として各種棋戦で活躍中。

「囲碁と人生」 

        小林 泉美(プロ棋士)

 みなさんが碁に出会って一番変わったことは何でしょうか?
  私は碁を通して人生の考え方を学んだように思います。

  碁は「礼に始まり礼に終わる」と言われています。「ありがとうござ
います」の気持ち。対局をしてくださった方への「ありがとう」。自分
を負かしてくださった方への「ありがとう」。そこで改めて感謝の気持
に気づくのです。

  私を育ててくれた両親、また、これまでお世話になった方は数知れま
せんし、碁を教えてくださった方はプロ・アマを問わず、たくさんおら
れます。感謝の気持でいっぱいです。

  みなさんの周りにも空気はありますよね。空気がないと人間は生きら
れません。こんなにありがたいものなのに、私はずっと空気の存在に気
がつきませんでした。空気だけではなくて、太陽や緑、水などいろいろ
なものに私たちは守られています。きっと碁に出会わなければ、一生気
づかなかったことでしょう。

  そして、つねに物ごとを相手の立場になって考えることも学びました。
相手を思いやる気持。対局をしているときはいつも、「相手はどう打っ
てくるかしら」と考えます。すごく大切なことだと思います。もっとも、
碁では相手が一番嫌がる手を考えて打たなければならないので、ここの
ところが、少し違いますね。

  私の愛読書に「星の王子さま」(サン-テグジュペリ著)がありますが、王子
さまはこう言っています。「大切なことは目に見えないんだよ」。一番、
大切なことというのは心の目で見ないと見えません。碁も同じではない
でしょうか。碁盤の上にどんなに大切な一手があったとしても、印がつ
いているいるわけではありません。見えないようなものが見えるように
なるための勉強に今取り組んでいるような気がします。

  碁には勝ち負けがつきものです。そこが魅力の一つではありますが、
私はそれだけではないと思います。

  碁を始めたことによって、これまでたくさんの人に出会い、多くのこ
とに気づくことができました。私はそんなふうに碁を通じて、一人の人
間、女性として、成長していくことを目標にしています。もっともっと
奥深い事柄には、碁を深く極めていくにつれて、気づいていくことがで
きるのではないでしょうか。

  これからも真摯な気持で碁に向かいあっていきたいと思います。

*******

こばやし・いづみ・日本棋院棋士四段1977年生まれ。
小林光一九段、故禮子七段夫妻の長女。木谷實九段の孫。

平成7年入段、9年二段、10年三段、11年四段。10年、第1期女流棋聖戦
で優勝し初タイトル獲得、11年防衛。11年度棋道賞新人賞。
(東京都小金井市)

   


●第6回は第25期名人戦で趙治勲名人をストレートで破り、新名人となった
    依田紀基プロの記事を「朝日新聞」より紹介します。

「碁一筋の依田新名人、"1”が並んだ成績表、
       ガスコンロも使えず」
        依田 紀基 新名人

 新名人になった依田紀基九段は身長179センチ、体重90キロを超える
偉丈夫だ。雑事にとんちゃくせず、天衣無縫な豪傑に見える。だが対局とな
ると慎重で細心、「囲碁界で、最も用心深い男」といわれる。二面性が奇妙
に同居する新名人の素顔は――。

 依田新名人は小学5年の夏、北海道岩見沢市から棋士をめざして上京。
安藤武夫七段(62)の内弟子になり、師匠の家から渋谷区立の小、中学校
に通った。本人によると「成績は5段階評価の1ばかりで、2が1つあるか
ないか」だったという。「授業中も詰め碁ばかり考えてたから、勉強は全然
だめでした」。中学3年でプロ棋士に。 

 師匠が自宅の庭で野球の手ほどきをしようとボールを投げると、バットを
剣道の正眼に構えた逸話がある。6年間の内弟子時代、囲碁以外は何も関心
がない少年だった。地下鉄も苦手で思うように乗れなかった。 

 大人になっても雑事の不器用さは名人級だ。海外対局に向かう際、出発前
日にパスポートがないのに気づいたり、自宅の住所を覚えていなかったり。 

 ところが、碁盤の前に座ると一変する。棋風は着実で本格派。「スキのな
い碁」と評される。ときに激しくぼやくが、決まって優勢を意識してから。
逆転されるのを警戒して自らを励ます。 

 史上最年少の18歳で名人戦リーグ入りして期待され、22歳のとき日中
スーパー囲碁で6人抜きして国際的にも注目を集めた。「若大将」はリーグ
入りから16年かかって頂点に上り詰めた。「人間的にも一皮むけて、たく
ましくなった」というのが大方の見方だ。 

 このところは「三国志」を題材にしたテレビゲームにはまり、1日中テレ
ビの前にくぎ付けという日もあるらしい。だが、囲碁の虫であることに変わ
りはなく、古い棋譜を並べる一方、細かい工夫で新定石を打ち出すことでも
知られる。 

 結婚3年目となる妻の囲碁棋士・原幸子四段(29)は「ガスコンロも操
作できず、スケジュール管理も全部私まかせ。無邪気で純粋な『大きな赤ちゃ
ん』です」とほほ笑んだ。 

*******

名人 依田 紀基(ヨダ ノリモト)
 昭和41年2月11日生。岩見沢市。安藤武夫六段に入門。55年入段。
58年新人王戦優勝。59年18歳で名人戦リーグ入り。7年第33期十段戦で、初の
ビッグタイトルを奪取。翌8年21期碁聖を奪取、十段と合わせ二冠となる。
12年NHK杯3連覇(通算5回)、新人王5回、新鋭、NEC杯各2回、
TVアジア3回、俊英、アコム杯優勝。名人戦リーグ10期、本因坊戦リーグ
2期在籍。10年日中スーパー優勝。平成8年優秀棋士賞を含め棋道賞17回。
原幸子四段は夫人。



  ●第7回は将棋界より先崎学八段の記事を「週間文春」より紹介します。
   先崎八段の夫人は「NHK囲碁」の聞き手を務めていた穂坂繭二段です。

「先ちゃんの浮いたり、沈んだり」 
  −− 盤の高さ −−  将棋プロ棋士 先崎 学 八段 
なんとも恥ずかしい話だが、私は、生まれてこのかた足の付いた盤を持った
ことが無い。こんな将棋指しはきっと他にいない。
 いま家で使っている盤は厚さ五センチぐらいの卓上盤で、しかも最上の素
材とされる榧(かや)ではなく、普及品の桂で、それも十数年のお付き合い
のため表面はどす黒く、升目の線もところどころ見えにくくなっていて、風
格のないことはなはだしい限りである。

 なんで、といわれても困る。別に主義がある訳ではないのだから−。なん
となく買う機会を逃してしまったからである。
 十七で棋士になり、初めて一人暮しをした頃は布製の盤を使っていた。こ
れは夜中に並べても近隣から苦情が出ないようにするためで、将棋界に伝わ
る手筋である。そのうちにボロアパートからちょっと広いマンションに引っ
越して今の盤を買った。確か五千円くらいだったと思う。
 料理人は包丁にこだわるといわれる。大工も鉋(かんな)やノギスにこだ
わるだろう。だが、それらはあくまで物を作る道具だからであって、棋士に
とって盤とは、頭の中を具現化するだけの何も生産しない道具である。だか
ら、たとえどんなにボロくても使い慣れたものがいい。
 とはいえ、良い物を買おうと思ったことがないわけではない。

 二十代前半だったか、無性に良い盤が欲しくなったことが一度だけある。
一生使うものだから、どうせなら高くとも良い物をと思った。とある良心的
といわれる盤屋に行くと、あったあったピッカピカの榧の盤が。家にはなく
とも一応プロなので、目利きは出来る、一目でこれだと思った。感じるもの
があった。こうなると洋服を買う女性と同じで、どうしても欲しくなる。ず
らりと並べられた盤の中で、自分が選んだ盤が、我が子のように特別に美し
く見える。
 恐る恐る値段を見た。十五万円である。まあ出せない値段ではなかった。
ちょっと今月切りつめれば・・・と思った刹那、これはちょっと安すぎると
いうことに気が付いた。そこで嫌な予感がしつつももう一度覗き込んで0の
数を勘定すると、やはり百五十万だった。貯金をはたけば買えないこともな
かったが、なにか頭をガツンとやられた感じで、ほうほうの態で店を出た。
余談だが、あれは絶対に1500000ではなく百五十万と表示すべきであ
る。客が一瞬でも舞い上がることになる。
 百五十万は高すぎる訳ではない。本当に良い物はそのぐらいするのが盤の
世界である。分かっていても貯金をはたく気になれず、またあるていど蓄え
が出来てもその時の体験が強烈過ぎるのか、盤屋に足が向くことはなかった。

 碁打ちの妻(穂坂 繭 二段)が初めて家にきた時に彼女は呆れ返った。
言葉が無かった。私はそれまで、そんなに変なことだと思わなかったが、こ
の世界の常識では家には足の付いた高い(値段も高さも)盤があって、それ
で勉強するのが当り前らしい。そこで、そういえば今まで行った棋士の家に
は確かに・・・と思っているのだから間抜けなはなしである。
 結婚すると、当然、家には立派な碁盤がある。私もヘボ碁を打つので、棋
譜を取り出してパチパチと並べてみた。ああ、その時の何と気分の良いこと
よ。心からキュッと引き締まるのが分かる。机の上とはエライ違いである。

 あの時にちょっと無理しても買っておけばなあ・・・と少し後悔した。そ
して、いや今からでも遅くはないぞ、買うんだぞという気合になった。
 数日後、何故か私は秋葉原にいた。パソコンが欲しくなったのである。将
棋盤はいつでも買える。その前にちょっと家を便利にしようと思った。そう
したら、今度はパソコンの画面上で棋譜が見られる。夢中になっているうち
に足付きはどこへやら、しまいには卓上盤まで殆ど出さない始末になった。
 ちなみに駒はとても盤には似合わない立派な物である。
 貰い物だからである。

*******

先崎 学(せんざき・まなぶ)
1970年、青森県生まれ。81年、米長邦雄門下に。87年四段昇段。
順位戦は三年連続昇級で今期A級入り。
著書に『先ちゃんの順位戦泣き笑い熱局集』『世界は右に回る』などがある。

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