碁悦同衆

   ●毎月1回、「殺し屋K四段」が囲碁関連の雑誌や新聞の記事より
   面白そうな内容をピックアップして紹介していきます。

  ●「碁悦同衆」のタイトルは江崎誠致著の囲碁エッセイ集より引用
   しました。もとの熟語「呉越同舟」をもじったようですが味のあ
   るアレンジです。



2002年度版 2001年度版 2000年度版


●第37回は2/25付で初タイトル(女流棋聖戦)をとった万波佳奈二段の記事を
  朝日新聞(2004/02/26)の「ひと」から紹介します。

《色紙に書く言葉は「向日葵」。
     「ヒマワリみたいに伸びたいから」》

 「勝てたなんて信じられません」。第7期女流棋聖戦三番勝負。タイトル初挑戦で、
4連覇の知念かおり女流棋聖(29)に黒番12目半勝ちし2勝1敗。25日、このタイト
ルを最年少タイで奪取した。

 NHK杯囲碁トーナメントの司会者としては、小川誠子六段以来10年ぶりのタイトル
保持者。愛らしい笑顔で、ブラウン管を通じての人気はすでに全国区。実力が追いつ
いた。

 囲碁を始めたのは5歳。アマ三段の父親が習い事として勧め、岩田一・八段主宰の
子供教室に通った。順調に伸びて東京都世田谷区立の八幡小学校6年のとき、全国
大会で優勝。女子では史上2人目の「小学生名人」になった。

 中学から棋士を目指し、16歳でプロデビューした。いま二段。「将来はお医者さんか
キャリアウーマンって思ったこともありますが、自然に勝負の世界に入った感じです」

 負けず嫌いの一方、思春期は恥ずかしがり屋で赤面症に悩んでいた。悩みが消えた
のは、単位制の都立高校に通ってから。

 「友達のおかげです。好きなのは英語とパソコン、苦手なのは数学」。5年がかりで
今春卒業する。

 小学6年のときの北京での体験が忘れられない。ソウル、台北など4都市の団体対
抗戦で、主将を務めた日本チーム(5人)は3勝12敗の惨敗だった。

 「韓国などのレベルは高い。人間としても私はまだ半人前。成長しなければ」

  ◇  ◇  ◇  ◇

■二段 万波 佳奈 (マンナミ カナ)
昭和58年6月16日生。兵庫県。大枝雄介九段門下。
平成12年入段、13年二段。
平成16年知念かおり三段を破り第7期女流棋聖獲得。




●第36回は2003/12/22に初タイトル(女流プロ最強戦)をとった鈴木歩三段の
 記事を一年前の「NHK囲碁講座(2003/01号)」 から紹介します。


 「世界にも目を向けなくちゃ」


 2001年にプロ入りしてから、わずか1年半で三段に昇段。164 センチの長身も
「まだ伸び続けてます」という、まさに伸び盛りの19歳だ(当時)。

 入段は「女流枠」で決めた。

 「(男女一緒の)本戦での入段を狙つていたのですが、次点に終わって・・・
だから、入段しても『悔しい』という気持ちがあって、(昇段を決める)大手合は
気合いが入りました」このガッツが、同期の中でも最も早いス ピード昇段につ
ながったようだ。

 師匠の岩田一八段も「がんばってくれてます。これからも楽しみ」とエールを
送る。さらに、「親の気持ちと一緒」と目を細める岩田八段。それもそのはず、
鈴木三段は、5歳のころから「岩田囲碁子供教室」に通い始め、師匠には「アタ
リ」から手ほどきを受けたのだという。

 「父が碁盤と碁石を持っていて、どうして興味を持ったのかは覚えてないので
すが、『碁を始めたい』と頼んで近所の岩田教室に連れていっても らいました」。

 その当時、歩さんはほかにもたくさんの習い事をしていた。バレエ、ピアノ、
水泳、英語、公文。でも、「断然、囲碁が好きでした」。

 小学校3年生のとき、初段まで強くなっていた歩さんに、師匠から「1年間で4、5
段になれるようだったら、プロを目指してみないか?」と声がかかった。見事に「ノ
ルマ」を達成すると、ほかの習い事は全部辞 め、本格的に囲碁に打ち込んで、月
曜以外は毎日岩田教室へ。この日課は、今も変わらずに続いている。

 岩田教室で切磋啄磨した仲間にはNHK杯の聞き手役で人気を集めている万波
佳奈二段もいた。

 「佳奈ちやんとは、歳も同じだし、実力も伯仲していて、今もお互いに ライバルで
す」。

 院生になって3年目、その「佳奈ちやん」が先に入段を決めると「お 尻に火がつき
ました」。

 翌年入段を決めたときには、「嬉しかったのはもちろんですが、やっとスタートに
立ったという気持ちのほうが強かった」そうだ。

 「とにかくもっともっと強くなりたい」と言う鈴木三段。岩田宅に通うほか、林海峰
九段、宮沢吾朗九投、有村比呂司八段らの研究会にも足を 運ぶ囲碁一筋の毎日
を送っている。

 詰碁が大好きで、林研究会では、張栩七段(当時)に創作詰碁を出題してもらい
「喜んで解いています。張栩さんの詰碁は難しくて、簡単に解けないところが面白い」
と顔を輝かせた。

 前途洋洋の鈴木三段だが、唯一の気がかりは、からだが弱いこと。「中学に入って
から突然体調を崩してしまって。やせの大食いなんですけど・・・」。 囲碁の仕事も、
「キャンセルして迷惑をかけることになる」ため、ほとんど受けないことにしている。「人
前に出るのも苦手ですし、ぼさっと してるので(笑)」。

 目指す棋士は? と尋ねると、「朴ヤ恩(パク・チウン)」という答が返ってきた。トヨタ・
デンソー杯で依田紀基名人を破った、あの韓国の19歳の女流棋士だ。鈴木三段は、
小学生のころに参加した「世界4都市対抗少年少女囲碁」で彼女と出合っており、最近
の活躍にかなり刺激を受けているようだ。

 「日本の女流では、佳奈ちやん以外の棋士とは歳が離れてしまうので…やはり、同
世代が気になります」。同じ歳といえば、富士通杯で優勝した李世ドル(イ・セドル)も
19歳。口には出さないけど、 本当の目標は彼かもしれない。

 「からだが弱い」などという周囲の心配をヨソに、鈴木三段の目は世界に向いている。
「今はこわいもの知らずだから・・・」と、師匠の岩田八段。 「でも、それも大事なこと」と
暖かい言葉を続けた。

 「具体的な目標はありませんが、早く女流タイトルを獲りたい」と鈴木三段。新しい年
の活躍に、おおいに期待したい。

     (インタビュー・高見亮子)


●第35回はプロ棋士の結婚相手についての記事を朝日新聞(2003/11/08)
  から紹介します。


 「増える棋士カップル 
     女性進出で職場結婚の趣」


 囲碁の張栩(ちょう・う)本因坊(23)と小林泉美(いずみ)女流本因坊(26)の
来春結婚が報じられたのが先週。2カ月前には将棋の中座真五段(33)と中倉
彰子女流初段(26)の婚約が伝えられたばかりだ。

 「棋士夫婦が増えているぞ」と調べてみた。タイトルを取ったりテレビ番組の聞き
手をしたり、話題のカップルに限っても下記の通り。実際はこの2倍はあるという。
意外に多い。

 囲碁の棋士夫婦は一昔前まで、2人合わせて160歳近い杉内雅男・寿子の長
老カップルぐらいだった。

 ところが日本棋院は85年度から、女性棋士特別採用枠を設けて毎年1、2人の
女性を増やすようになった。今では男性271人に対し、女性は53人。6人に1人
は女性だ。

 一方、日本将棋連盟でも74年に女流棋士が生まれ、現在男性151人に女性
は48人。かつての「男の勝負の世界」は今やすっかり様変わりだ。

 いきおい職場結婚が増える。

 棋士夫婦でまず期待できるのは妻の技量向上らしい。結婚後に女流棋聖を4
連覇中の結婚7年目、知念かおりさんの本音。

 「教えてほしくても他人だと遠慮がちになるが、夫には気兼ねなく聞けるし丁寧
に教えてくれる。上達しているはずです」

 囲碁と将棋、世界が異なっても同様だ。穂坂繭三段は「昇段のかかった一局に
勝てたのは、将棋の夫のおかげ。『勝つぞ』という気合と執念が身についたのに
違いありません」。

 夫側の利点は「スケジュール管理など全部奥さん頼り」の依田紀基名人を代表
としよう。

 ボランティア団体「将棋普及推進の会」で、小学生らの手ほどきに取り組む植山
悦行・中井広恵夫妻のケースも心なごむ。

 さて、興味深いのは夫婦同士の対局である。将棋も囲碁も技量に差があったり、
トーナメントの組み合わせ抽選で1回戦での顔合わせを避けたりでまだないそうだ
が、実現を楽しみにしたい。

◆主な棋士カップル(婚約を含む)

《囲碁同士》

杉内雅男九段 ☆ 杉内寿子八段
依田紀基名人 ☆ 原幸子四段
小松英樹九段 ☆ 小松英子三段
羽根直樹天元 ☆ 羽根しげ子初段
楊 嘉源九段 ☆ 知念かおり女流棋聖
岡田伸一郎八段 ☆ 岡田結美子女流最強
張 栩本因坊 ☆ 小林泉美女流本因坊

《将棋同士》

植山悦行六段 ☆ 中井広恵女流三冠
中座 真五段 ☆ 中倉彰子女流初段

《将棋と囲碁》

先崎 学八段 ☆ 穂坂繭三段
中川大輔七段 ☆ 宮崎志摩子三段


●第34回は今年1月、強盗に撃たれ落命したドイツ人棋士「ハンス・
  ピーチさんの記事を朝日新聞、読売新聞から紹介します。


 「アマ指導に尽くしたドイツ人囲碁棋士 
  ハンス・ピーチさん(惜別) 悲運の最期 」



 ドイツに生まれ、日本で囲碁棋士となり、中米グアテマラで囲碁普及の合間、
静かな湖畔で強盗に撃たれて落命。

 ドラマチックな人生行路の途次に、これほどの悲運に見舞われた棋士はいない。

 事件のあらましを、同行していて無事帰国した長原芳明六段(63)が語る。

 「首都郊外の火山と湖の観光途中、二人組の強盗に襲われた。車の後部座席
にいた無抵抗のピーチさんだけ短銃で撃たれ、腰に撃ち込まれた一発の銃弾が
命を奪った」

 グアテマラの囲碁人口は約30人。囲碁協会の会長で医師のカセレスさんが
マイカーのハンドルを握っていた。「景色のいい遠回りコース」が、結果的に
は危険を招いた。事件から40日たって犯人逮捕の知らせはまだ届かない。

 年間6、7回派遣される日本棋院の海外普及活動に、ピーチさんは初めて
選ばれた。最初の訪問国キューバでは、スポーツ省が各州に囲碁指導員を置
いて子供に手ほどきしていた。「海外普及こそ、ぼくに向いた仕事。そう言っ
て張り切っていたのに」と長原六段は悔やむ。

 10年ほど前にプロを目指して来日し、修業を経て外国人特別採用枠で97
年に初段。四段まで進み、六段が追贈された。タイトルを争うほど強くはなかっ
たが、アマの指導には熱心。01年夏から入門講座の講師を引き受けた。

 1年前から通う千葉県柏市の鈴木恵子さん(26)の追想。「いつも笑顔で
気さく。生徒の考えを聞いた後で『この方がいい。なぜなら……』と分かりや
すかった」

 故国のブレーメンで営まれた葬儀には、師匠の小林千寿(ちず)五段(48)
が参列した。「気持ちの整理がつかなくて、今は何も話せない」

 欧州囲碁界ではピーチさんの名前を冠した賞の創設、日本では追悼碁会が
計画中だ。

 初心者講座の講師は、親しかった孔令文四段(21)が引き継いだ。中国
のかつての覇者・聶衛平(じょうえいへい)九段(50)の長男だ。国際化
する囲碁の胎動が続いていることが、せめてもの救いだろうか。
        (2003/02/24)朝日新聞/(荒谷一成)

  ◇  ◇  ◇  ◇

   「岡目八目」

【2003年2月10日 読売新聞(夕刊)/(NTVアナウンサー鷹西美佳)】


 ハンス・ピーチ四段が普及のため訪れた中米グアテマラで強盗に遭い死亡し
たという衝撃的な報が飛び込んだのは、棋聖戦第1局の2日目が始まったばか
りの朝だった。

 ハンスさんはドイツ北部ブレーメン市出身の34歳。大学進学を断念してまで
碁に打ち込んでいるのを見た小林千寿五段に誘われ、21歳で来日した。言葉や
生活習慣の壁を乗り越え、1997年に入段。3年前、四段に昇段。

 ドイツでの葬儀から帰ったばかりの小林五段が「昇段して私も責任が果せた
とホッとしていたのですが、いまは何も考えられなくて…」と言葉少なに語る。

 欧州出身のプロ棋士は二人しかおらず、海外普及活動にはなくてはならない
存在だった。また自身も後に続く外国人のプロを育てるために熱心だった。
国内のアマチュアの指導でも人気があり、1m87の長身が座ると碁盤が小さく
見えた。

 私は小林五段との付き合いの中で、ハンスさんを知った。ハンサムで穏やか
な人柄。礼儀正しく、笑顔が絶えず、都内は自転車で移動していた。
私が初段になったとき、居酒屋で行われたお祝いの会には、赤い薔薇の花束を
持って来てくれた。そのとき一緒に撮った記念写真と自筆のカードが手元にあ
る。それを見ているとハンスさんが亡くなったという実感がまだわかないが、
大好きな碁を世界に広めようと志願して出かけた先で、夢を突然断ち切られて
しまった青年の無念さを思うと胸が締め付けられる。

 囲碁を通じて文化の架け橋になろうとした彼の死を無駄にしないために、私
たちはどうしたらいいのだろうか。

 ドイツでは彼の名を残すための基金作りをしようとする動きもあると聞く。
日本でも囲碁を学びたい外国人を支援するシステムを作るなど、できること
はあるはずだ。良いアイデアはないだろうか。

●第33回は「囲碁ライフ、Vol.1(2003/winter)」に掲載されていた
  「囲碁レディー:黒須麻耶さん」の記事を紹介します。


 「囲碁で培った集中力が仕事に役立ちます」

「石を碁盤に置くときの”カチッ”という音がすごく気持ちよくて・・・。
それでハマッてしまったんです(笑)」

 背筋をピンと伸ばし、長く、しなやかな指で石を盤に運びながらそう語るの
は、黒須麻耶さん、19歳。96年、雑誌『セブンティーン』の読者モデルグラ
ンプリに合格。以来、映画・テレビ・CMなどで活躍、いま最も将来を嘱望さ
れている女優のひとりである。

 プロフィールにも「特技・囲碁」と書き込んでいる黒須さんが、初めて囲碁と
出合ったのは高校1年生のとき。お母さんが大学時代にサークルに入ってい
たという話を聞いたことがきっかけだった。
「それで私も”やってみたい”と言ったら、実家から碁盤を持ってきてくれて・・・」

 もともと「お家大好きのインドア派」。最初の2〜3カ月は毎日のようにお母
さんに対局をせがんだという。「友だちを勧誘してもみんな乗ってこなくて(笑い)、
周りにやる人がいなかったんです」。ある友人が入院したときには「その子に
は悪いけど、”チャンス”と思って(笑い)、マグネット式の碁盤を持って毎日お
見舞いに行った」そうだ。

 それほどまでに黒須さんを夢中にさせた囲碁の魅力 − 彼女のよれば、そ
れは「自由に打てること」だという。
「将棋なんかは駒の動きが決められているし、どこに打つかもだいたい決まっ
ているじゃないですか。でも、囲碁は自由に打つことができる。そこが好きなん
です」

 ただ、そのぶん「あまり手を考えず、好き勝手に打ってるし、性格もどちらかと
いうと短気で、じれったくなっちゃう」から、実力は「・・・」。とはいえ、囲碁サーク
ル出身のお母さんに「3回に1回くらいは勝つ」というから、なかなかのものに違
いない。加えて、囲碁は黒須さんとお母さんにとっては大切なコミュニケーション
ツールでもある。「対局しながらいろんな話をするので、親子の断絶なんて全然
ないですね(笑)」

 家の近くに碁会所があり、これからは「外で打つつもり」。「ひとりだけ勧誘に
乗ってくれた友だちがいるので、一緒に行こうかって言っている」そうだ。

 また、囲碁で培った集中力は「仕事にも役に立っていると思う」と黒須さん。
これを活かして、本業でも「映画を中心に、いろんなことに挑戦していきたい
ですね」。

●第32回は「朝日囲碁21、Vol.7(2002/11月号増刊)」に掲載されていた
  「23世本因坊 坂田栄寿の囲碁雑記帳」を紹介します。


  「64タイトルの思い出/坂田栄男」

−前略−

 趙治勲さんが64個目のタイトルを取って、私の記録に並びました。

 彼とは年が三まわりちがっていて、タイトル戦も一回しか当たっていません。
日本棋院選手権戦で、たしか私が54歳、彼は18歳だった。ほかのことは何もか
も忘れてしまいましたが、この場面だけはよくおぼえています。
(編注.昭和50年、第22期日本棋院選手権第4局。趙の大ポカで投了。このシ
リーズは2連敗3連勝で坂田の逆転防衛となった)

 私の負けははっきりしていたのに、こんなこともあるんですねえ。たぶん初の大
舞台で頭に血が昇っていたのでしょう。このころ彼とは、このシリーズをふくめて
ずいぶん当たっています。たしか初手合から私が10連勝とか12連勝とかしたは
ずで、若手キラーというんですか、十台の趙治勲の目標 − 壁のような存在だっ
たかもしれません。

 坂田は自力で勝った、自分は自力で勝ったことがない、と趙さんはいいますが、
そんなことはない。たくさん勝つからには自力がなくてはかないませんし、他力
(運)も味方につけないといけません。

 趙さんは今年46になるんですか。その年で64個なら、タイトル80個も100個も
ゆめではないはずです。

 まあ、昔は棋戦の数が少なかったから、いちがいに比較はできないかもしれま
せん。

−中略−

 ただただたくさん勝った思い出があるばかりで、記録的なことはいちいちおぼ
えていません。人にいわれて、ああそうだったと気がついた記録も少なくありま
せん。ひまな一日、家内に調べさせたところ、タイトル数と年齢の関係はこうなっ
ていました。

30代−15、40台−32、50台−13、60台−4。

 これでわかるように、私がほんとうに花開いたのは40を過ぎてからです。念願
の本因坊を手にしたのが41のときでしたから。まあ、今でいえば王銘エン君のよ
うに奥手といえば奥手ですが、半分は時代のせいもあったでしょうね。

 若いころから妙にナーバスで、なかなかタイトルを掴めなかったのが、文字どお
りの苦節十年で、うっぷんが晴れて一気に爆発した感じで・・・。

 40台を振り返ってみると、よくあれだけのことができたと、我ながら不思議です。
人間機関車の異名をとったマラソンランナーがいましたが、よくからだが持ったも
のです。よく勝ち、よく遊んだ。そのときどきで胸のうちにもやもやがあるのは碁
打ちの常ですが、うまいぐあいに自分をだましながらやってこられた。

 年間の勝ち負けが30勝2敗だとか、七冠王が二回だとか、あるいは本因坊戦の
挑戦手合で、足掛け五年17連勝だとか。こういう馬鹿みたいな記録は、自分でい
うのも何ですが、もうなかなか現われないかもしれません。

 どうしてこんな馬鹿みたいな記録にありつけたかというと、才能ということをいっ
ちゃあいけません。才のある人はいつの時代にもたくさんいるのだから。勝つとい
う棋風に向けての、精神的な努力はもちろん否定はしません。その努力は30台の
たまものです。

 しかし私のばあい、根本的に貧乏だった。おやじが典型的な職人気質で、カネを
ためようという気がからっきしなかったのです。物心ついてから家に金銭のゆとりが
あったという思い出は一つもありません。昭和十年ころの下町家庭では珍しくもな
かったでしょうが、とにかく勝負に勝たないとメシが食えないという意識がひじょうに
強かった。おおげさにいえば、飢えと背中合わせの感覚が日常生活のなかにあり
ました。

 もう一つには、私はえらい人にかわいがられなかった。かわいがられようともしな
かった。子供のころからえらい人に反感をもっていて、どうして人間に差があるのか、
えらいということがどういうことか、よくわからなかったのです。政財界の地位の高い
人に、碁打ちが平身低頭する。そういうことがめちゃくちゃへたくそでしたよ。だから
そういうえらい人に一人も知人ができなかったし、後援してもらってもいません。

−中略−

 まあ、こちらは負けん気で気が強く、いいたいことをいう、かわいげのない子供だっ
たでしょう。しかし碁打ちである以上、勝って自分の力だけで稼がないといけない、
勝って自分の力だけで認められないといけないと、子供心に考えていました。

 こういう雑草の考えをもっていましたから、孤独だったし、仲間うちで碁の研究会を
やった記憶がありません。私の碁は誰にも教わったことのない、まったくの独学です。
あの研究会というのはどうにも性に合わず、また若い連中はよく仲間うちで早碁を打
つ。ああいうお遊びの早碁も大嫌いで、生涯一局も打っていません。碁というのは打っ
たときは真剣な碁しかない − そう信じていたからです。もちろんアマ相手の指導碁
は別ですが・・・

 そんないっぱしの記録を残せたのに、どこかで関係しているかもしれません。

 今の人たちはたいへんです。ハングリーな気持ちをもちえず、韓国にも一方的に
やられている。まわりに強いのがいっぱいいてたいへんなのに、心構えがわるいと
きているから、もっとたいへん。

 私の目の黒いうちに世界一の日本人棋士が出現することがあるでしょうか。

(構成・小堀啓爾)


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