碁悦同衆 (2001年版)

  ●毎月1回、「殺し屋K四段」が囲碁関連の雑誌や新聞の記事より
   面白そうな内容をピックアップして紹介していきます。

  ●「碁悦同衆」のタイトルは江崎誠致著の囲碁エッセイ集より引用
   しました。もとの熟語「呉越同舟」をもじったようですが味のあ
   るアレンジです。

  ●第8回は第19期女流本因坊戦で念願の初タイトルを獲得した祷(いのり)
     陽子プロの記事を「囲碁2月号」より紹介します。
     祷新女流本因坊は入段五年目の初挑戦で見事大輪を咲かせました。

   「空 心」 
 知念「祷さんには私のうれしい顔、悲しい顔、すべてを見せてきました」
 祷「皆さんは当然、知念ファンでしょうが、実は私も知念さんのファンな
んです」
 こんな挨拶で始まった、知念さんの故郷・宮古島での女流本因坊戦第一局。
そこにはオジさんたちがタイトル戦を戦っているときのような、殺伐とした
雰囲気は少しも感じられない。食事をするときも、観光に行くときも、いつ
も隣同士。まさに「仲よし対決」そのものだった。

 祷さんが挑戦者になって、一番喜んでくれたのが知念さんだった。「将来、
二人でタイトル戦を打てたらいいね」。院生の頃から語り合ってきた二人の
夢が今、現実になったのだ。
 ポカで勝ちを拾った第一局。地元新聞社の容赦ない質問に、知念さんが一
生懸命答えているとき、祷さんは今にも泣き出しそうな顔をしていた。「い
いと思う局面が一度もありませんでした」。コメントは敗者そのものだった。

 シーソーゲームを繰り返して迎えた第五局。朝、祷さんの表情がやけに明
るい。「第四局のほうが緊張しました。最後なのだから自分の碁を打とうと
いうことだけを考えていました」。
 その言葉どおり、祷さんは果敢な勝負手を放って、中盤で優勢に。その後
もゆるむことなく打ち進め、念願の初タイトルを獲得した。

 「小林光一先生ご夫妻、そして禮子先生にタイトル獲得を伝えたいです」
 師匠の小林十段は、インターネットで祷さんの戦いぶりをずっと見守って
いた。大阪からも棋士仲間が応援に駆けつけてくれた。そして祷さんをもっ
とも可愛がってくれた禮子七段は天国から・・・・。

 タイトル獲得の翌日、祷さんは日本棋院に顔を見せ、女流本因坊としては
じめて色紙にサインした。そこには「空心」という文字が書かれてあった。
大好きな「空」のような広い心。今の祷さんにはぴったりの言葉ではないか。

*******

祷陽子(いのり・ようこ)
昭和49年6月14日生まれ。千葉県出身。小林光一門下。
平成8年入段、同年二段、9年三段、10年四段、12年五段。


  ●第9回はイタリアで囲碁の普及活動に邁進している重野由紀二段の
     記事を読売新聞と重野プロのホームページから紹介します。

   「石を並べれば通じ合う心」 
      【2000年11月18日 読売新聞夕刊の記事抜粋】

 「言葉が通じなくても碁を一局打てば心が通じることから、囲碁は手談とも言
われます。こちらに来てから、その意味を本当に実感できました」

 1997年、囲碁の国際普及のためにイタリア・ミラノに単身渡欧。学校の教師、
サラリーマンなど約50人を相手に、市内の公民館やカフェで週一回指導している。
生計は日本棋院の公式戦休場手当と一人当たり500円の指導料で立てている。
 海外に腰を落ち着けて普及に携わっている現役プロ棋士は彼女一人だけ。指導
者が少ないこともあって、ヨーロッパを中心に出張も多い。ドイツ、フランス、
スペイン、チェコ、ルーマニア――。「二十か国は優に超えました」

 招待されることがほとんどだが、インターネットで碁のイベントを検索して自
ら出向くこともある。こうした出張の際は、招かれても出向いても指導料はゼロ。
「もう完全なボランティアです」

 碁を教えてくれたのは父親だった。十歳になると父親の大きな色黒の手が盤上
を指し示しては、碁の基礎を教えてくれた。医師として多忙を極めた父だったが、
この時だけは家族の団欒を感じたという。「厳格――というほどではなかったです
けど、盤を囲んでいる時は、父が優しく見えましたね」

 基礎を一通り習得すると、父親の勤務する静岡・浜松市内の総合病院の囲碁ク
ラブが勉強の場に変った。寝間着姿の患者や白衣をまとった父の同僚とのリーグ
戦に参加して、実戦で鍛えられた。放課後になると病院に直行して、色白の手、
やせ細った手、いかつい手、面白い手、繊細そうな指先――と石を交えた。

 囲碁は盤面がチェスや将棋に比べて約四倍も広い上、曖昧な部分が多いことか
ら、自由に自己表現できる。そうした所に囲碁の魅力を感じたが、大人相手の手
談の楽しさだけは今も鮮明に覚えているという。

 この夏、ミラノの囲碁クラブのメンバーと結婚した。事後報告だったこともあ
って、父親は猛烈に反対したが、ミラノを訪れた際、初めて出会った夫と盤をは
さんだら、ようやく理解を示してくれたという。
 「言葉は通じなかったけれど、やっぱり何かを分かり合えたみたい。でも一日
一局で一週間はかかりましたけどね」

 結婚を機にイタリアでの定住も考えているという。



  ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

     「結 婚」 
      【重野プロのホームページ「イタリア日記 2000/12」より】

(前略) 

 ジャジャジャジャーン!
 この場を借りて皆さんにご報告があります。

 私事で大変恐縮で、またとっても気恥ずかしいのですが、今年の話は今年の内に、
(もったいつけてすいません!)実は私、この夏に結婚をしました。

 皆さんのご想像、ご心配通り?相手はイタリア人で名前はIvan Vigano、ミラ
ノの碁クラブで知り合いました。ちなみに彼はイタリア4級、日本では初段くら
いだと思います。

 彼は福祉の仕事をしていて、今はアル中の人達が更生&社会復帰を目的とする
施設の相談員をしています。
 ワインが水と同じように気軽に飲まれているイタリアではアルコールに対する
危機感が薄く、よってアル中患者のパーセンテージはかなり高いのです。

 人体への影響だけでなくドラッグや犯罪、家庭崩壊、等と問題は複合的に絡み
合っているようで、私などは話を聞くだけでも暗〜く落ち込んでしまう仕事です。

 給料安いのにキツイ仕事でよくやるわ、と思う反面こうした世界に目を向ける
彼を尊敬しています。これってノロケかしら?

 そういう訳で我が家ではアルコール=毒、お客さんが来た時は別として殆どお
酒は飲みません。(なんてかわいそうな私でしょう、、、。)
 
  そうそう以前『碁好きのイタリア人は根暗なタイプが多く、碁クラブでナンパ
された事は一度もない』と書きましたけど、これって本当の事。

 彼も根暗とは思わないけど、ちょっとシャイで、控えめなタイプです。親しい
友人には『あなたより彼の方がずっと日本人らしい』と言われる程ですもの。

 え〜っと、だからつまりアタックしたのは私の方なんです。当初、彼は私の迫力
にただただ驚いていたように思います。

 結婚式はごくごく簡単に。

 彼の家はカソリックでないので教会には行かず町役場で婚姻式をした後、親戚一
同20人程で食事会をして済ませました。ささやかですが彼の親戚から暖かく迎えら
れ、私には何よりも嬉しい事でした。

 届けを出せばおしまいの日本と違い、イタリアの婚姻はず〜っと慎重でちょっと
びっくりしました。

 まず申し込んでもその場で受理されません。『AさんとBさんは結婚します』と、
役場の掲示板に2週間程張り出され、苦情がなければそこでようやく日取りを決め
る事になります。これは重婚や不義な婚姻を避ける為の昔からの習わしだそうで、
それが今日まで続いているようです。

 婚姻式は執行人に公証人、私の場合通訳付きで家族の見守る中、夫婦の権利や義
務を宣誓しサインをします。

 印象的だったのは式の最後『ようこそイタリアへ』と、イタリアの国旗を手渡さ
れた事。日本では外国からの花嫁さんに対し、こんな風に祝福してくれるでしょう
か?

更にこの後、日本領事館に婚姻届けを出してようやく終了、国際結婚って本当に面
倒なものです。

 元々彼の家族の家に居候の身でしたので、生活自体あまり変わりません。これか
らも家族の支えを基に、普及活動を続けるつもりです。

 結婚して変わった事と言えば、以前より焦らなくなった事でしょうか。少し長い
目で物事思えるようになったような、、、まあそうでないと続きませんものね、何
しろ予定以上に長期滞在になりそうなので。

(後略)
   

*******

重野 由紀(シゲノ ユキ)
昭和40年12月18日生。新潟県。島村俊廣九段門下。
53年院生。61年入段、平成6年二段。 (Milano  ITALY) 



  ●第10回は「女流棋聖戦」で惜しくもタイトルを逃したものの昨年は
     絶好調の成績を残した「加藤啓子」三段の記事を紹介します。

   『 自然に囲まれて「ナチュラル」に 』 
      【「NHK囲碁講座3月号」より 】

 とにかく、もてる。同世代の男性はもちろん、同性にも、年上の先輩棋士
にも。いつもにこにこ、明るく元気。「いいこ」という言葉がぴったりの加
藤啓子三段。

 仲のいい棋士はだれと聞くと、「男の子の?女の子?」と返された。「同
世代はみんな仲いいんですよ。手合いが終わったら、そこら辺にいる数人で
ご飯を食べに行くんで、特にだれ、っていうのはないのです。きのうも、友
人(棋士)の一人暮らしのマンションに5人で行ってわいわいやってきまし
た」。

 昨年、女流棋士の中で勝ち星ランキング、勝率ともにトップの成績をあげ
た。実力は折り紙付きだが、38勝14敗、勝率7割を超えているのは加藤
三段だけ。立派というしかない。

 名人戦や本因坊戦などの棋戦は、まず四段以下の一次予選で勝ち上がった
4、5人が五段以上が参加する二次予選に進出できる。一次予選は次代を担
う若手がたくさんおり、枠抜けするということだけでも大変なことだが、加
藤三段は今年、二次予選に3回も駒を進めている。「二次予選は全部1回戦
で負けちゃったんですけれどね」。

 そして今年、女流棋聖の挑戦者になった。知念かおり女流棋聖に三番勝負
を挑む。

 囲碁好きのお父さんの一存で碁を始める。娘をプロにしたいと思い、5歳
の加藤三段に手ほどきをした。3人姉妹の中でいやがらず興味を示したのが、
加藤三段だけだった。「負けず嫌いというのもありますけれど、自然に、お
もしろいと思ったんですね」。近くの碁会所で腕を磨き、小学4年生のとき
にはアマ三段まで上達した。

 5年生のとき、プロを目指して、幕張にあった日本棋院の寮に入った。
「わくわく、楽しみでした。もう、棋士になる以外考えてませんでしたね」。
一緒にいたのが知念かおり女流棋聖、矢代久美子三段など。「同じものを目
指している仲間がいるというのは楽しかった。小学校では私はちょっとふつ
うじゃなかったから。さっさと帰って週3、4回は碁会所に行ってましたか
ら」。

 99年に入段、プロになってまだ2年たっていない。女流特別採用枠でな
く一般の部(男女一緒)で入段したのは祷陽子女流本因坊以来3年ぶりで、
ここ10数年でもたった3人しかいないほど大変なことなのだ。

 好調の秘密は?「母のおかげです。日常のことはもちろん、話し相手にも
なってくれて」。自分だけ食べる玄米を炊く以外は、お母さんに頼りっぱな
し。そのお母さんに、普段の加藤三段の様子を聞くと、「常にマイペース。
よく食べてよく寝て。ふだんはぼーっとしていますよ。散歩したり本を読ん
だり折り紙をしたり。ひとり遊びが好きですね」。

 小さいころから熱中している折り紙は玄人はだし。大きな和紙をカットす
るところから始まる。ふくろうや猫、ゴジラなどの大作も折るという。「ぴ
りぴりしたとき折り紙は精神安定にとってもいいから。私、集中力だけで生
きているんです」。

 決勝戦の前には、気合を入れるために服を新調した。でも、それだけ。
「今後の目標?苦手なんですよね。考えたことない。ま、がんばるぞという
ぐらいで。将来は田舎に住みたい。畑仕事をやりたいんですよね」。

 ナチュラルな(妹さんは「野生児」と呼んでましたが・・・・)22歳、
今後も目が離せません。
               (インタビュー・内藤由起子)

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三段 加藤 啓子(カトウ ケイコ)   昭和53年6月12日生。茨城県。
平成11年入段、同年二段、12年三段。 (茨城県取手市) 



  ●第11回は中国出身のプロ棋士「富 紅梅(ふ・こうばい) 初段」の
     記事を紹介します。小さい頃から苦労を重ね、日本で夢が手に届くと
     ころにきた彼女の活躍に期待。
   
                     【産経新聞 2001.02.05 「親を語る」より抜粋 】
   
 『 「納屋暮らし」でも明るく楽しく 』 

 一九六〇年代半ばから七〇年代半ばにかけて、中国全土に文化大革命の嵐
が吹き荒れた。「農民に学べ」をスローガンに掲げる下放政策のもと純粋だ
った十代の両親は自ら農村へ赴き農作業の毎日を送る。やがて文革も収まり、
十年ぶりに一家五人でハルビンに戻った。ここで両親は残酷な現実に打ちの
めされる。
 下放されず残った兄弟たちは大学を出て会社役員、教師など順調に人生を
歩んでいた。義務教育しか終えていない両親は仕事にもありつけない。父が
やっと就いた仕事は背骨がきしむほど重い荷物を運ぶ重労働。母は毎朝夜も
明けきらないうちからバス、列車、舟と乗り継ぎ、二時間以上かけ家畜飼料
の会社に通勤した。 
 文革が収まってまだ間がなく中国全土が貧しかったが、一家はとりわけ貧
しかった。レンガと土でできた納屋が住まいだった。中国北部ハルビンの冬
は厳しい。凍りつくような夜は、オンドル式ベッドで親子五人が温め合った。 

 貧しくはあったが、家の中は明るく楽しかった。両親は「負けた人が食事
の後片づけをしよう」と、じゃんけんや将棋で遊びながら、家事を分担した。
親子でにぎやかに、ふざけあう様子を見た友人は「親子なのに友達みたいで
うらやましい」という。紅梅さんは両親と二人の兄の愛情に包まれすくすく
と育った。 

 九歳の時、小学校のクラブ活動で囲碁に出合う。負けず嫌いの性格と根気
強さでたちまち腕を上げ、大会でも優勝するようになる。十二歳のときには
黒竜江省棋院で寄宿し専門学校で本格的に囲碁を勉強するよう勧められる。
小学校の先生は反対した。将来の保証がない勝負の世界より、勉強がよくで
きたので大学進学を勧めた。両親に相談すると、「後悔しないよう自分で決
めなさい」と言った。 

 紅梅さんは棋院入りを決める。ところが、精鋭ばかりが集まる世界で次第
に勝てなくなって自信を失い、十六歳で競技から退く。十八歳で卒業するが
挫折感にさいなまれ、半年以上家に閉じこもった。
 友人たちは大学進学などそれぞれの道を歩んでいる。どこでもいいから留
学したかった。そこへ日本留学の経験がある叔父が日本行きを勧めてくれた。
両親は今回も紅梅さんの意志を尊重してくれた。 

 十九歳の四月、日本へ立つ日、親せきが集まった。日本語はほとんど分か
らなかったが、期待に心は躍った。父は出張中で留守。母は朝から落ち着か
ない。明らかに動揺している。いよいよ出発というときも見送りをしようと
しなかった。娘の姿が見えなくなると、我慢していた感情が弾けたように崩
れ、大声を上げて泣いたという。後に親せきから聞かされ、「本当は行かせ
たくない」という両親の本心が胸を突き刺した。 

 「棋院入りに留学と、私の意志を尊重してくれて感謝しています。強い決
断力には頭が下がる思いです」 

 来日後は学費、生活費を賄うために朝七時からビルの掃除、昼は日本語学
校、夜は碁会所での指導碁と中国では考えられなかった忙しい毎日を送る。
 二年後、念願の大学に合格。入学直前に出場した全日本女流アマ選手権で
準優勝する。囲碁への情熱もよみがえった。大学生活、囲碁ともに充実し、
プロにもなった。「タイトルを奪取して、両親を呼び寄せるのが夢です」 

 一度はあきらめかけた囲碁の道が、祖父がつけてくれた名前のようにいま
花開こうとしている。
                       (文 佐竹一秀 )

*******

 【ふ・こうばい】1975年2月2日、中国黒竜江省賓県生まれ、26歳。獨協
大学卒。ハルビン市大会、黒竜江省大会優勝など。平成6年来日。8年全日
本女流アマ選手権準優勝。9年国際アマペア選手権準優勝、10年女子学生選
手権優勝、全日本女流アマ選手権優勝など。11年4月入段。日本棋院初段。
中国・蘇州出身の夫と2人暮らし。


  ●第12回は「週刊少年ジャンプ」で連載されている「ヒカルの碁」
   の記事を紹介します。

   囲碁好きの少年が主人公の漫画「ヒカルの碁」が連載3年目に入り、
   翻訳出版された韓国・台湾でも人気だ。若者の囲碁離れが進む中で
   の意外な評判。何が魅力なのか。
   
                     【2001年4月19日 朝日新聞夕刊より】
   
 『 「ヒカルの碁」――韓国・台湾でも人気上々』 

 「ヒカルの碁」は「週刊少年ジャンプ」(集英社)で1998年12月から連載が始
まった。「読者は囲碁を知らないので、連載は10週で終わるかも」と心配な
船出だった。
 主人公は囲碁を知らない中学生。非業の死を遂げた平安時代の貴族の霊が
乗り移り、上達して棋士になる。連載が始まると「囲碁って面白そう」と評判
になった。原作はほったゆみさん、漫画は小畑健氏。

 単行本は11巻まで発行され、累計750万部。韓国、台湾、香港、シン
ガポール、タイでも単行本が出ている。韓国やタイではともに3万部以上売
れて人気は高い。テレビ東京で10月から連続アニメにする準備も進む。

 集英社編集部は「初心者がプロになっていく成長物語は、少年漫画の王道。
囲碁は馴染みがなくて取っ付きが悪かったが、逆に新鮮なイメージも喚起し
たようだ」。

 漫画人気は若年層の囲碁離れに歯止めを掛けつつある。子供や高校生の囲
碁大会参加者は漸減だったが、「漫画がきっかけで囲碁を習い始めた」という
児童生徒が増え、どの囲碁大会も参加者が上向きに転じた。

 囲碁ファンの減少、高齢化に悩む日本棋院は「千載一遇の好機。ゲーム性に
着目して囲碁を生涯の趣味にしてもらえるよう、工夫を凝らしたい」とニコニ
コ顔だ。

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  【「日本棋院囲碁ホームページ」より「ヒカルの碁」ページ 】


漫画賞受賞

週刊少年ジャンプの人気マンガ「ヒカルの碁」が小学館主催の漫画賞に選ばれました。
(2000年3月3日受賞
ヒカルの碁とは?
集英社発行「週刊少年ジャンプ」で連載されている囲碁漫画。
原作・ほったゆみさん、漫画・小畑健さんで、梅沢由香里四段が監修しています。

また、ジャンプコミックス(漫画単行本)でも発売する超人気漫画となっています。
(現在11巻まで発売中 第12巻2001/5/01発売)


あらすじ
ある日、小学6年生の進藤ヒカルは蔵で古い碁盤を見つける。その時、突然碁盤に宿っていた平安時代の天才棋士・藤原佐為(ふじわらのさい)の魂がヒカルの意識の中に入り込んだ。佐為の囲碁に対する一途な思いが、徐々にヒカルを囲碁の世界へと導いていく・・・・。


見所
原作、絵ともにすばらしく良い出来です。「この作品自体はフィクションであり、実在の人物・団体・事件などには一切関係がない」とはなっていますが、碁会所や日本棋院会場、対局風景等の描写がとてもリアルで、これは現実かと錯覚をおこしそうな程です。

先日も原作の「ほった」さんが日本棋院へ来られ、対局場・事務局や地下の発送場まで、会館内を隅々まで観察されていらっしゃいました。
ヒカルの碁では、時折専門の囲碁用語がでてきたり、解説があったり、棋譜などが載ります。
これからの展開が非常に楽しみです。

碁界への影響
最近の子供囲碁大会などで、お子さんに碁を覚える「きっかけ」を聞いてみますと、以前なら父親・祖父からというのが圧倒的でしたが、今ではファミコンやこの「ヒカルの碁」を見てという回答が増えてきました。碁をする、しないに関係なく子供たちの間で超人気の本作品は囲碁界へ非常に良い影響をあたえています。青少年への囲碁普及に強力な一手です。




  ●第13回は欧米出身としては初めて九段になった「マイケル・レドモンド
     九段」の記事を「朝日新聞」「読売新聞」から紹介します。



【朝日新聞 2000.11.02 より抜粋 】

 『 71人もいる九段の中で欧米出身者は1人だけ 』 

 好きな日本語は「自然体。ありがとう。美しい……、女性。ふふっ」。
 
 棋士になって20年目。この秋、欧米出身としては初めて九段になった。 

 プロ入りした時の初段から始まり、棋士は大手合の対局の勝ち星によって
昇段し、九段は最高位である。段が上になるほど対局料も高い。所属する日
本棋院で九段は71人もいるが、全棋士331人のうち欧米出身者は4人し
かいない。 

 だが、「ぼくの本当の目標は名人戦などのリーグに入ることです」。 

 5年前から呉清源九段の研究会に参加している。布石が下手で一発勝負に
かけたりしがちだったが、「呉先生に知恵をもらうようになって、考え方に
幅が出てきました」。 

 米国ロサンゼルス市郊外の生まれ。スペースシャトルなど宇宙開発に携わっ
たことのある物理学者の父親から、10歳のときに、囲碁を手ほどきされた。
アマ初段程度の父親をあっという間に追い抜いた。 

 1977年に来日して大枝雄介九段に入門、18歳でプロ試験に合格した。
師匠宅の内弟子生活は10年に及んだ。実家では、外出先を告げるとか、目
上の人を敬うとか、厳しく育てられた。「内気なこともあって、内弟子時代
に、強い人の教えを素直に聞けたので上達が早かったと思う」 

 来日してすぐ漫画で日本語をおぼえた。語り口はなめらかで明快。テレビ
の囲碁番組で解説者として登場する機会も多い。 

 日本で修業していた中国人囲碁棋士、牛嫻嫻(ニュウ・シェンシェン)
さん(35)と8年前に結婚した。2人の娘さんを交えて話すときは日本語
だ。 

 チェスやトランプのブリッジと比べて、「囲碁は目的が漠然としています。
考え方がとても幅広く、東洋的という以上に、神様が考え出したゲームとし
か思えないほど奥深い」という。「ぼくは無神論者だけどね」
  (荒谷一成)

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【「読売新聞」2000年11月 「顔」より】


 『 囲碁に東西に壁はありません 』 

 十四歳で単身来日して二十三年。欧米人の段位記録を次々に更新し、この秋、
最高位の九段に昇段した。
 これまでの多くの欧米人が囲碁を学び来日したが、現在日本で活躍している
のは、棋士約四百五十人中わずか三人だけ。文化の違いに戸惑い、帰国する少
年が多い中で、初志を貫いた。
 「日本文化にいちいち反発していたのでは、無駄な労力が費やされる。日本
に住む以上、日本人として生活すればいいんです」

 十歳の時に物理学者だった父親から囲碁の手ほどきを受けた。序盤、中盤が
徹底的に研究されているチェスに比べ、「可能性が無限にあって、自由な発想
や自己表現ができる」囲碁にとりつかれた。
 三年ほどでアマ四段の実力に達し、「このペースなら、プロになれる」と来
日を決意。十八歳でプロ試験に合格し、研鑚を重ねてきた。

 今春から半年間、NHK囲碁番組で講師を務めた。「懇切丁寧で、語彙(ごい)
も豊富。歴代の講師の中で一番」と担当責任者。テレビ囲碁番組制作者会賞の
今年度受賞も決まっている。

 これまで北米代表として出場していた世界囲碁選手権で、今年は層の厚い国
内予選を突破。名実ともに日本を代表する棋士になりつつある。
 「九段は一つの目標でしたが、やっぱり棋聖、名人、本因坊の三大タイトル
のリーグに入りたいですね」

 中国出身の牛嫻嫻(ニュウ・シェンシェン)さんとの間に二女。家族の共通
語は日本語だ。
        (久能以平)


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九段 マイケル・レドモンド(マイケル レドモンド)

  昭和38年5月25日生。米国カリフォルニア州。大枝雄介九段門下。52年
院生。56年入段、同年二段、58年三段、59年四段、60年五段、63年六段、
平成2年七段、8年八段、12年九段。
 59年大手合第2部全勝優勝。60年留園杯戦優勝。平成元年大手合第1部全
勝準優勝。2年俊英戦準優勝。4年新人王戦準優勝。5年棋聖戦七段戦準優勝。
 (千葉県千葉市) 


  ●第14回は医師の道を捨てプロ棋士に転身を決めた、アマ囲碁界No.1の
     坂井秀至さんの記事を紹介します。
   


【2001年6月13日 産経新聞夕刊 より抜粋 】

  坂井秀至「プロの世界で勝負をしてみたい」  

 アマチュア囲碁トップで医師免許を取得している坂井秀至さん(28)が
6月13日までに関西棋院の審査会でプロ入りを認められた。医師免許
取得のプロ棋士誕生は囲碁界では初めて。段位は若手棋士との試験碁の
結果で決められる。

 坂井さんは日本アマチュア最強戦を六連覇中の実力者で、昨年の世界
アマチュア囲碁選手権戦でも優勝している。京大医学部を今春卒業し、
医師国家試験に合格、6月から京大付属病院の研修医として医師への道
を進むはずだったが、「囲碁に専念したい」とプロ棋士への転身を決めた。

 関西棋院でも、坂井さんが囲碁大会でプロ棋士を破る活躍をしている
ことから、院生(棋士養成機関)以外からの入段を認めた。

 坂井さんは兵庫県出身。産婦人科医の父から囲碁の手ほどきを受け、
佐藤直男九段の教室に通いながら、腕を磨いてきた。

 「全力を出し切らないまま囲碁人生を終えるのは悔いが残る。力いっぱ
い戦うチャンス。プロの世界で血の湧き出るような勝負をしてみたい」と
熱っぽく話す。

今後はプロ若手高段者二人と2局ずつ戦い、その結果でプロの段位を
五段から初段のいずれかに認定、早ければ9月にもプロデビューを飾る。

************

◆坂井 秀至(さかい・ひでゆき)
1973年4月23日、兵庫県三田市生まれ。28歳。父・孝至さんの影響で囲
碁をはじめ、小学5年生の時、史上最年少のアマ本因坊兵庫県代表に。
神戸・灘高から京大医学部を今春卒業。(藤沢)秀行塾や若手プロの研究
会で腕を磨き、1996年には読売新聞主催の日本アマ囲碁最強戦、アマ本
因坊などアマ三冠に。以後、同最強戦では6連覇中。 



  ●第15回は囲碁界で一大勢力を築いてきた木谷一門の記事を紹介します。
   


【2001年6月15日 朝日新聞夕刊より 】

  囲碁名門の木谷一門無冠に   

 「一つの時代が終わったんだ、おれたちも年を取ったしね」。年配の
囲碁好きの談議でこの春から話題になっているのは、囲碁の7大タイト
ル戦で木谷(きたに)一門のタイトル保持者が1人もいなくなったこと
だ。 

 囲碁界は長らく、木谷実九段(故人)一門の全盛時代だった。71年、
当時22歳の石田芳夫が史上最年少の本因坊になったのを皮切りに、本
因坊10連覇の趙治勲、名人と棋聖各8期の小林光一、「宇宙流」の武
宮正樹、王座11期の加藤正夫らが君臨し続けた。 

     ◇ 

 しかし、強豪たちも熟年にさしかかるにつれて徐々に勢いを失う。今
春ついに小林が十段を奪われ、一門のタイトル保持者は30年ぶりにゼ
ロとなった。 
(現在、碁聖戦五番勝負で小林光一九段が山下碁聖に2勝1敗と勝越し
 タイトル奪還の可能性も・・・・)

 新たな覇者は海外組だ。棋聖、王座、十段の3冠・王立誠、目下本因
坊戦でぶつかる王銘エン本因坊と挑戦者の張栩は台湾生まれ(本因坊戦
は王本因坊が4勝3敗で防衛)。柳時熏天元は韓国出身。依田紀基名人
と山下敬吾碁聖の存在感は薄れがちだ。 

 木谷一門の退潮は、時代と社会の変容を強く意識させる。 

 戦前から囲碁の天才少年を受け入れて、才能の開花に情熱を注いだ師
匠。親元を離れた少年たちの母親役をこなした師匠夫人。かわいい盛り
の子供を囲碁修業に送り出す親がいて、多くの内弟子を抱えられる広い
屋敷があった時代。 

 半世紀近く過ぎて、世の中はすっかり変わった。 

     ◇ 

 子どもの数が減り、「修業」も死語同然。一人でできる楽しみは増え、
他人との共同生活は煩わしくなった。 

 師匠の偉業を受け継ごうと、内弟子を今春までとっていた趙治勲は
「1人しかいない息子を、ものになるかどうか分からない世界に出せる
親って、もういないものだよ」と話す。 

 木谷一門の盛衰は、私たちの社会のありようを、どこか反映している
といえないか。 

 (荒谷一成) 



  ●第16回は「日経パソコン」誌で紹介された囲碁ソフトの記事を
    紹介します。
   
  囲碁ソフトは上達の早道
    初心者はどんどん対局を   

 ゲームソフト開発のコーエーは、9月下旬、アマ初段の棋力を持つ囲碁
ソフト「手談対局W 究極の囲碁」(1万2800円)を発売する。「初段」
の囲碁ソフトは日本初。段位を認定した小島高穂九段に、囲碁ソフトの
実力を聞いた。



■段位はどのように判定するのか。

 自分で対局して棋力を調べ、さらに同レベルの実力を持つ人と対局
した結果を持って段位を認定する。
 「手談対局W」は星目(9目分のハンデ)で私といい勝負をし、アマ
3段程度の実力を持つ人とは1勝1敗だった。ここで勝てなかったら、初
段を与えるつもりはなかった。

■実力はプロに匹敵するレベルに達しているのか。

 まだまだ。プロ初段になるには、あと100年はかかるのでは(笑)。
碁石を自由に置けるのだから、パソコンでは到底パターン化しきれない
だろう。ただ、急速に強くなっているのは確かだ。6年前に初めて囲碁
ソフトをアマ5級に認定したときは、初段まで10年はかかると思ってい
たのが、既に実現したのでから。

■囲碁ソフトの楽しみ方は。

 囲碁のルールを覚えたての人がトレーニングするには最適だ。囲碁
が強くなるには、とにかく場数を踏むことが必要。
 自分が教えている教室に参加する人を見ていても、パソコンで自主練
習していると上達が早い。常に「手談対局W」に勝てるようになれば立
派なもの。どこで囲碁を打っても恥ずかしい思いをすることはないだろ
う。



  ●第17回は「朝日新聞」で紹介された韓国囲碁事情の記事を
    紹介します。
   
  囲碁を習って集中力アップ
    韓国の子供に人気、教室に5万人   

    
 囲碁を習うと集中力がつき、頭の回転も良くなる――。こんな考え
が一般的な韓国では、子ども向けの囲碁教室がすっかり定着している。
習い事のかけ持ちが珍しくない教育熱の高さが背景にあり、全国約
850の教室に計5万人が毎日通っているという。どんな利点がある
のだろうか。ソウル市の教室を訪ねてみた。(丸山 玄則)

 ●受験に備えた頭の運動

 ソウル市東部の江東区。高層マンションが立ち並ぶ新興団地の一角
に、囲碁教室「名人囲碁学院」がある。

 木曜日の午後。5、6歳の子どもたち約20人が、盤を挟んで対局
していた。ほとんどが囲碁を覚えて数カ月の初心者だ。

 お互いが猛スピードで打つため、わずか15分ほどで1局が終わる。
しかし、立ち上がったり、よそ見をしたりする子はいない。じっと盤
面をにらんで集中している。技術は未熟ながらも、勝つために懸命に
戦っていることがうかがえる。

 「何も考えないで打つと簡単に負けますからね。勝ちたいから集中
して考え、姿勢も良くなる。真剣に考える姿勢が自然に身につくのが
囲碁の素晴らしいところです」3年前に同学院を開いた崔和吉院長
(56)は自信をこめて話す。

 入門コースとプロ養成コースがあり、それぞれ70人、55人の生
徒が通う。日本では考えられない多さだが、韓国では標準的な規模。
200人以上が通う教室もある。

 入門コースの生徒は、5歳から小学校低学年の子どもたちがほとん
ど。授業は1回1時間で、平日は毎日通う。最初の20分は先生が基
本の手筋などを解説。その後、生徒同士で2局打つのが日課になって
いる。

 7万ウオン(約6600円)の月謝を払って通わせる親は何を望む
のか。

 「特に期待していたわけではないが、楽しみながら集中力がつけば
良いと思って」。8歳と6歳の兄弟を通わせるキム・ヨンイさん
(35)は話す。始めて1年ほどで、子どもたちに落ち着きがでて、
本を良く読むようになったと喜ぶ。

 囲碁を通して集中力、創造する能力、暗記力などを鍛え、将来の受
験勉強に役立てたいというのが、親の本音のようだ。

 一方で、教室側は「人間教育」の効用も強調する。「負けを認める
経験を積むことで、他人のせいにしない素直な心や、次は勝とうとい
う強い精神力が養われます。礼儀作法もよくなります」と、崔さんは
話している。

 ●効用を科学的に探る動きも

 韓国の全国囲碁教室協会の康俊烈会長によると、子ども向けの囲碁
教室が急激に増えたのは90年代前半。
16歳で世界一になった天才、李昌鎬九段の活躍で、囲碁ブームに火
がついた。

 同じころ、ソウル市の郊外にマンションが続々と建設され、そこに
移りすんだ核家族を対象に教室の開校が相次いだ。「頭や礼儀作法が
良くなる」という評判が口コミで伝わり、囲碁を習わせる親が増えた
らしい。
最盛期には全国で1000校、7万人の生徒が学んでいたという。

 ところが、97年の経済危機以降は不況の影響をまともに受け、習
い事の「御三家」、英語、テコンドー、コンピューターに生徒を奪わ
れた。現在は850校、5万人といわれている。

 危機感を持った囲碁の総本山、韓国棋院は、囲碁を現在の文化・芸
術分野から、スポーツ分野に組み入れるよう国に働きかけている。ス
ポーツとして認められれば、大学入試で推薦枠が設けられるなどの利
点があるからだ。

 囲碁の効用を明らかにする研究も始まる。ソウルにある明知大学の
囲碁科が来年、囲碁を習った子と習わない子で、創造力や暗記力の違
いがでるかどうかを調べる。康会長は「日本のように下火になる前に
手を打たないと。科学的に証明できれば、新たなブームをおこせるの
ではないか」と期待する。
                            (9/27、朝日新聞より抜粋)




  ●第18回は「NHK囲碁講座」で講師を担当している片岡聡九段の記事を
    紹介します。
   
  「弱い立場での打ち方を伝授します 」  

    
 片岡聡九段のご自宅に入って、びっくりした。
 まるでモデルルームのような部屋。カーテン、ソファ、クッション、
家具、カーテンも東アジア調にコーディネートされている。CDも、
封筒も一糸乱れず重ねられタテヨコにきちんと並ぶ。整理整頓、掃除
されているさまは、とても独身男性の部屋とは思えない。
 そういえば手合いのときも、盤の脇にはお茶碗やたばこ、ハンカチ
などが整然と並んでいたのを思い出した。

 10月から半年間、講座の講師を務めるのが、片岡九段である。
 これまでテレビ、ビデオなどで明瞭でわかりやすい解説をご覧になっ
た人は多いだろう。しかし意外にも講座は初めて。

 「弱い立場のときの打ち方をお話していきます。サバくポイントは、
捨て石。すべてを助けようとしてひどいめに遭っている人をよく見か
けます。石を捨てることを覚えれば、楽に強くなれますよ」
 種石、カス石の区別をつけられるようになるだけで、有段者の資格
は十分だという。
 有段者が十分堪能できる内容であるが、級位者の方がご覧になって
もよくわかる話を心がけてくれる。

 プロになってから入学した高校時代は、ロック好きが高じてバンド
をやっていた。パートはドラムス。
 音楽好きは今でもかわらず、現在はジャズに凝っている。碁とジャ
ズは似ているところが多いという。「ジャズはそれぞれのパートがソ
ロをとってやっていくのですが、ある程度の制約、ルールの上でほと
んど即興で、という点が似ていますね。お互いがやっていることに対
して反応し、合わせていく。調和が大切なことも似ています」

 世界的ジャズピアニストでエッセイストでも有名な山下洋輔さんと
も親交があり、昨年は共演もした。「私のドラムとのセッション、と
いうのはあちらから見れば『指導碁』みたいなものですけれど」。ち
なみに山下さんは碁がお好きだそうだ。

 棋士の趣味ナンバーワンであるゴルフは、「昔はやっていましたが、
今は他の趣味が忙しくて」
 他の趣味とは、『競輪』。石田芳夫NHK杯選手権者ら棋士の間で
は根強いファンが多い。

 同世代の王立誠棋聖、小林覚九段と仲がいい。小林九段とは以前同
じ町内に住んでいたこともあり、(自転車のほうの)趣味も一緒だ。
王棋聖とは20歳ころ、同じアパートの隣の部屋に住んでいた。「一
緒に勉強した記憶はほとんどありません。ごはんを食べたり話したり
した思い出ばかりです」

 最後に片岡九段からみなさんへの上達アドバイスをどうぞ。
 「簡単な詰碁をやってください。『簡単』というのが重要です。ひ
と目でできるものを繰り返すのが上達のコツです。形に強くなると、
石の捨て方もうまくなりますよ」

                               <インタビュー:内藤由紀子>




  ●第19回は伊勢崎市出身でプロ棋士採用試験に合格した三谷哲也君の記事を
    紹介します。
   
  「プロ棋士の採用試験を群馬県内最年少で
    突破した三谷哲也君 」  

    

◇◇◇ 【2001年11月18日 読売新聞(群馬版)より】 ◇◇◇

 プロ棋士を目指して修業中だった伊勢崎市柴町、三谷哲也さん(16)が、
日本棋院のプロ棋士採用試験に合格し、県内では史上最年少でのプロ入りを
果たした。三谷さんは「これからが本当の勝負」と、気持ちを新たにしてい
る。 

 採用試験は八月下旬から三か月間にわたって行われ、千葉市で行われた本
戦には全国の十三歳から二十九歳までの俊英二十七人が参加した。三度目の
採用試験挑戦となる三谷さんは、上位三人が合格となる総当たり戦の末、二
十勝六敗と第二位の好成績で合格した。これにより、県内の現役プロ棋士は
四人となった。 

 日本棋院からは来年三月、正式に初段の免状を受けるが、三谷さんは「今
年が最後という気持ちで戦った。最終戦までもつれプレーオフも覚悟してい
たが、結果が出せてよかった」と明るい表情で語る。 

 三谷さんは小学一年生から父親の手ほどきを受け、小学五年生の時に趙治
勲九段から誘われたのがきっかけで、プロ棋士を目指すようになった。今年
三月に中学を卒業して以後は日本棋院の院生となり、東京で下宿生活をしな
がら勉強していた。 

 三谷さんは「これからが正念場。さらに研究を重ね上を目指す」と話し、
その将来には県内囲碁ファンの期待が寄せられている。 

 小学生時代の三谷さんを指導した日本棋院県支部連合会の高山博厚会長は
「三谷君は真面目で辛抱強く、また努力家でもあった。早くタイトルを目指
す棋士になってほしい」と声援を送っている。 


◇◇◇ 関連記事【2001年1月12日 読売新聞(群馬版)より抜粋】 ◇◇◇

◆趙治勲門下で修業、原点に

 三谷君は四人兄弟の末っ子。小学校一年のころ、兄たちとアマチュア二段
の腕前を持つ父が、対局する様子に引かれ、ルールを覚えた。父の手ほどき
と、生来の研究熱心さからすぐに腕を上げ、一年後には三子で対戦するまで
に。

 小中学生の大会で上位入賞するうちに、プロになりたいとの思いが芽生え
ていった。その漠然とした夢を、具体的な目標に変えたのは、小学四年の夏
休みに受け取った一通の手紙だった。差出人は趙治勲。「うちの合宿に参加
しないか」と誘ってきたのだった。

 その「合宿」とは、趙が全国から若い囲碁の才能を見いだそうと、各地で
頭角を現している子どもたちを自宅に住み込ませて特訓する、いわばプロ棋
士への私塾だ。

 合宿に参加したいと父に話すと、「あの趙先生が認めてくれるのなら」と
賛成してくれた。五年生に上がると同時に転校し、千葉市に住む趙の門をた
たいた。「合宿」は半年続いた。同じ年ごろの同期の門下生は七人。学校か
ら帰ると、毎日寝るまで囲碁づけの毎日を送った。

◆「厳しい世界、あえて挑戦」

 中学生になってからは依田紀基名人や趙善津前本因坊らを育てた安藤武夫
の門下生となり、毎週のように東京・渋谷まで電車で通った。一日の三分の
一を碁盤に向かう日々が続いた。

 プロを目指す日本棋院の院生のうちのAクラス(十二人)に名を連ねるま
でになったが、プロの段位取得には、同棋院が行う本戦で勝ち抜かなければ
ならない。

 毎年秋に行われる本戦に臨むのは二十五人前後で、うち勝率の高い上位三
人だけが、プロの段位を許される。


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