碁悦同衆 (2002年版)


   ●毎月1回、「殺し屋K四段」が囲碁関連の雑誌や新聞の記事より
   面白そうな内容をピックアップして紹介していきます。

  ●「碁悦同衆」のタイトルは江崎誠致著の囲碁エッセイ集より引用
   しました。もとの熟語「呉越同舟」をもじったようですが味のあ
   るアレンジです。



●第20回は親子棋士羽根泰正さん・直樹さんの記事を紹介します。

  「親子でタイトルを獲得した囲碁棋士
      羽根 泰正さん・直樹さん 」  


◇◇◇ 【2001年12月27日 朝日新聞(ひと)より】 ◇◇◇

 父親は11年前の王座戦で加藤正夫王座に勝って初のタイトルを獲得。そ
して今月、次男は天元戦で柳時熏・天元を破り、初めてタイトルを手にした。
親子で囲碁の7大タイトルを獲得したのは史上初の快挙だ。

 「タイトル保持者になった実感? 何も変わらず、同じ毎日です」。淡々
と語る息子の傍らで、46歳で初タイトルと遅咲きだった父親は、「僕の時
はとてもうれしかったけどな」。

 親子棋士は小林光一碁聖・泉美女流本因坊や武宮正樹九段・陽光四段らの
例があるが、棋風はおのずと似通っている。この親子ほど違うのはまず珍し
い。

 父親は「中国流の布石が得意で、攻めに終始する激しい碁」。息子は「中
国流を打った記憶はない。僕から戦いを仕掛けることはなく、終盤までゆっ
くり運ぶおとなしい碁です」。

 父親はパソコンを駆使し布石の勝率を計算したり、対局を楽しんだりする が、
息子は「パソコン対局なんてしたことありません」。

 毎年正月、一家そろって三重県磯部町の祖父宅で過ごしていたころ。小学
生の息子は、前年の名人戦など主なタイトル戦の棋譜を80手ぐらいまで暗
記し、父親の前で盤上に並べてみせるのが年頭の習わしだった。

 息子は15歳で日本棋院中部総本部の棋士に。妻は羽根しげ子初段(28)。
曽祖父(そうそふ)はアマ五級、91歳の祖父はアマ五段。「だんだん強く
なってきてるんです」と父親は相好を崩す。

 父親は今秋、囲碁界7人目の通算千勝を達成した。息子は年間最多勝利記
録(61勝)にあと1勝と迫る。




●第21回は『ヒカルの碁』にも登場する広島県「因島」と江戸末期の碁聖
  「第14世本因坊秀策」の記事を「因島市HP」より抜粋して紹介します。


  「囲碁のまちいんのしま」 

◇◇◇ 【囲碁のまちづくり】 ◇◇◇

 因島市は、広島県の東南部、瀬戸内海のほぼ中央に位置する全国でも珍し
い一島一市の島の都市です。
 歌人吉井勇が「白滝の山に登れば眼路広し 島あれば海 海あれば島」と
歌っているように、島の多い瀬戸内海の中でも多島美を誇り、風光明媚な自
然に恵まれています。

 古くから内海交通の一角を占め、室町時代から戦国時代にかけて村上水軍
の本拠地であったことから、海と船に関する長い伝統を有し「造船とみかん
のまち」として繁栄してきましたが、基幹産業である造船業の構造的不況に
より、ピーク時には4万人を越えていた人口も約3万人となっています。

 こうした中、平成9年1月、本市は「囲碁」を市技として制定しました。

 江戸末期に活躍し、近代布石の基礎を築き、現在でも碁聖と仰がれる天才
棋士「第14世本因坊跡目秀策」は本市外浦町の出身です。
 外浦町の生家跡に建てられた「本因坊秀策碑」には、詣でれば「半目強く
なる」という謂われもあって、多くのプロ棋士をはじめ囲碁関係者の参詣が
あります。
 また、隣接する秀策記念館にも訪れる人が数多く見られます。

 秀策以降の囲碁伝統により本市では囲碁が盛んであり、第8期・13期の
王座位、第3期関西棋院早碁名人位などを獲得した半田道玄10段や、アマ本
因坊戦優勝5回、アマ十傑戦優勝6回を誇るアマ古豪の一人、村上文祥氏を
筆頭に、多く県代表を輩出しています。
 現在でも、囲碁愛好者は人口の1割を越える約3,500人、うち有段者
約400人といわれています。

 この伝統文化を永く後生に引き継いでいくべく、「本因坊秀策生誕の地
  囲碁のまちいんのしま」をスローガンとして、『本因坊秀策囲碁まつり』、
『お楽しみ囲碁交流』(碁ランティア)などの事業が行われています。

 しかし、こうした取り組みもほとんど中・高年齢者によって支えられてお
り、生活環境の変化による若者の囲碁ばなれが急速に進み、普及活動の一環
として小・中学生の囲碁教室が開催されるようになりました。

 また、クラブ活動で囲碁を採り上げる学校も出てくるなど、「囲碁のまち
いんのしま」の伝統を守り、まちの活性化にもつながる囲碁の普及を、市民
あげて取り組もうという動きが急速に高まり、市技制定の要望がなされ、囲
碁は本市を代表する伝統文化として全国に認知されていること、魅力あるま
ちづくりと地域の活性化に役立つこと、コミュニケーションを大切にした心
豊かな人づくりに役立つこと、若年層から高齢者まで幅広い学習需要に応え
られること、本市のシンボルとして特色ある貴重な資源として活用できるこ
となどから、市技として制定されたのです。

◇◇◇ 【本因坊秀策伝 】 ◇◇◇

 本因坊秀策は桑原輪三と母カメの次男として、文政12年(1829年)
に因島市外浦町に生まれました。
 幼名を虎次郎といい、3、4歳の時、碁石をやればすぐに泣き止み、黒白
を並べて遊んだといわれます。母に囲碁を教えられたのが5歳で、6歳のと
きには近郷に敵が無く、7歳のとき三原城主浅野公と対局してその棋力を認
められ、竹原の宝泉寺住職葆真和尚に師事しました。その技の巧妙さに人々
は驚き神童といいました。

 9歳の冬に浅野公のすすめにより江戸へ行き、本因坊家に入り本因坊丈和
の弟子になりました。11歳で初段の免許を得て翌年帰国、浅野公より5人
扶持を賜り、15歳で4段の免許を得、名を秀策と改めました。17歳のと
きには12人扶持に増禄され、18歳の時大阪で幻庵因硯と対局し、世に言
う「耳赤の妙手」で有名です。
 20歳で第14世本因坊跡目になり、丈和の娘花と結婚しました。
 21歳で御城碁に初出仕しましたが、この時から13年間御城碁において
19連勝で負けることがありませんでした。
 しかし、34歳という若さで他界してしまいました。
   一方、秀策は碁に秀でていただけでなく、晩年、当時の書家竹雪道人につ
いて書を学び、師の筆跡と判別できないほど上手だったといわれます。書の
多くは世に伝えられていないものの、石谷広策に与えた囲碁十訣や碁盤に記
した「慎始克終、視明無惑」また、父母に送った手紙等が残っています。

 秀策の布石は秀策流といい、今日の対局にも見ることがあります。また、
秀策の棋譜を並べると段が上がると言われるほどで、高段者は一度は並べた
ことがあるそうです。

   秀策はその棋力と人格により「棋聖」と呼ばれていますが、これまでの多
くの棋士の中で「棋聖」と崇められるのは、第4世本因坊の「道策」と「秀策」
の2人だけで、その偉大さがわかります。
 秀策の遺品は外浦の生家跡の秀策記念館に多く保管されており、囲碁愛好家
が親しみをもって訪れています。



●第22回は関西棋院の俊英、瀬戸大樹三段の記事を「日経HP」より
   
紹介します。

  「勝率は8割オーバー、
     関西棋院期待の17歳 」 


 関西棋院の期待を一身に集めている若手棋士がいる。瀬戸大樹三段、17歳。

プロデビューした一昨年、24勝2敗(勝率9割2分)で文句なしの関西棋院
賞新人賞を獲得したのに続き、昨年も14連勝を含む44勝9敗、勝率8割3分
という好成績で同道玄賞に輝いた。

 東京、名古屋だけでなく中国や韓国にも積極的に“武者修行”に出かけ、
「今はすこしでも強くなりたい」と目を輝かす。顔にあどけなさを残す
「期待の星」は、驚くほどに礼儀正しく、生活面でも親元から離れて自立
しているしっかり者だった。

(聞き手は日本経済新聞社文化部編集委員の木村亮)

  ◇ ◇ ◇
■昨年、一昨年とプロになってからすばらしい成績を残しています。

一局、一局、目の前の対局を大切に打とうということだけ考えてきました。
ですから、成績についてはこれまであまり意識していません。ただ、勝てば
高段の先生とも打てるチャンスがふえますし、それがとてもうれしいです。

■九段の棋士ともずいぶん打っているようですね。

 これまでに14局うちました。入段してから九段の先生に7連勝し、自分で
も信じられない思いでしたが、その後は1勝6敗。それほど甘くはないとい
うことだと思います。

■もともと碁を始めたのは。

 確か5歳ごろだったと思います。父親の手ほどきで覚えました。もっとも
父親自身はそれほど強くなく、アマ初段あるかどうかといった程度。

 三重県の名張市に住んでいましたが、小学校の1年から奈良県の方の子供
教室に通い始めました。県が違うといっても電車で20分程の場所で、週に2
回ずつ通っていました。

 そのときの先生が、もう亡くなられましたが、地元では有名なアマの強豪
で、とても親身に指導していただきました。私自身、始めた当初からプロを
目指して勉強していました。

■プロを意識していたとなると、小さいころから相当な打ち手だったわけ
 ですね。


 実はそうでもないんです。少年少女の全国大会に4回ほど出ましたが、ど
れも2回戦までしかいったことがありません。小学6年が終わったところで
院生になったときも、当時の腕前はアマでいえば五、六段程度。同世代で私
より強い人は何人もいました。

 でも、小さいときから持ち続けてきたプロ入りの意志は変わらず、中学卒
業時点でも高校に進学する気はありませんでした。一昨年の初め、卒業後最
初の年に入段しましたが、そのときの関西棋院の入段リーグでも6勝2敗で
プレーオフになり、それに勝ってようやく入段しました。プロになったとき
も決して断トツの成績ではなかったのです。

■ずっと自宅から通っていたのですか。

 院生になってからも、中学1年のときは大阪まで自宅から通っていました
が、中学2年からは大阪市内にある関西棋院の寮に移り住みました。今でも
そこで数人の若手プロや院生と共同生活しています。

■普段はどんな形で囲碁の勉強をしているのですか。

 昨年スタートした関西棋院囲碁学園に週に2、3回通っています。この学
園は基本的には子供向けの教室なのですが、プロもそこで勉強できるように
なっていて、結城聡九段や横田茂昭九段といった諸先輩にいろいろと教えて
いただいています。

 朝9時から夕方5時ごろまでみっちりやります。そのほかに、月に1回、
呉清源先生の研究会に参加させて頂いています。自分の打った碁を並べて見
てもらうのですが、問題点をすぐに指摘してもらえるのがすごい。全体の雰
囲気も大阪とは少し違うなという印象です。また、名古屋で行われている泰
正(たいせい)会という羽根泰正九段の研究会にも月1回、顔を出していま
す。

 海外にも何度か出かけており、韓国で金承俊七段らに早碁を打ってもらっ
たこともあります。向こうの若手棋士は強いなという印象でした。

■最近はパソコン対局で勉強する棋士も多いと聞いていますが。

 1年ほど前まではよく打っていましたが、最近はあまりやっていません。
画面を見ながら打つのと実際に碁石を並べるのでは少し感じが違うような気
がしますし、今は研究会を中心にしようと思っています。

■尊敬する棋士は。

 呉先生をはじめすごい人たちばかりですが、一番身近な存在なのが中野泰
宏七段です。今、住んでいる寮で以前一緒だったこともあり、公私にわたっ
て大変お世話になっています。近々、2人で北京の中国棋院に勉強しに行く
計画もあります。中野先生と、泰正会でもご一緒している羽根直樹天元のお
2人には早碁も何度も打ってもらっていますし、人間的にも尊敬しています。

 もっと歴史的な人物でいえば好きなのは『秀策』。石の流れがとてもきれ
いだと思います。打ち碁をよく並べています。

■自分はどのような棋風だと思っていますか。

 よくわからないというのが本音です。ほかの人からは堅実で冷静な碁と言
われることが多いのですが、自分ではそうとも思えません。布石よりは中盤、
終盤の方が好きですが、自信があるかと言われれば、全くありません。

■自炊のうえに、東京や名古屋だけでなく韓国や中国に自腹で行くとなる
 と結構、お金もかかります。


 一応、自分で管理していますが、対局料をためていますし、ほかに使うこ
ともないので……。今は少しでも強くなれれば、という気持ちで、勉強の機
会があれば積極的に参加したいと思っています。

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瀬戸大樹三段(せと・たいき)
 1984年3月27日三重県生まれ。2000年入段、同年二段、2001年三段。2000
年関西棋院新人賞、2001年関西棋院道玄賞(殊勲賞)
                         [2002/02/18 掲載]



●第23回は小学生の囲碁ブームの記事を朝日新聞より紹介します。

  「小学生に囲碁ブーム
  人気漫画「ヒカルの碁」でイメージ一新 」 


 小学生を中心に空前の囲碁ブームが起きている。囲碁棋士の世界を描く人
気漫画「ヒカルの碁」の影響だ。囲碁はこれまで、「暗い」「ダサイ」と言
われがちだったが、今は逆に「かっこいい」。イメージが一新され、ゲーム
が持つ本来の面白さや深さが認知されてきたようだ。囲碁や将棋を正課とし
て取り入れている学校もあり、想像力や集中力を養う効果を期待する声も多
い。

 群馬県伊勢崎市の市立広瀬小学校(児童数814人)。昼休み、体育館に
児童が集まってくる。床には初心者用の碁盤が並ぶ。先月14日に始まった
囲碁教室は、自由参加にもかかわらず毎日約80人が訪れる。

 「お願いします」。正座であいさつをして対局開始。一局が終わると、次
の相手を探してまた「パチリ」。碁盤を挟めば、性別や年齢を気にする子は
いない。2年生と6年生が向かい合う姿もみられる。

 「対局中は本当に素直」と小林彰子校長。同校教諭の弟がプロになったの
をきっかけに、教室を開催したところ、予想を上回る200人以上の希望者
が集まった。「ヒカルの碁」で関心を持っていた子どもたちだ。

 「地域との交流に」と、地元の囲碁愛好家に指導を依頼。地元紙囲碁解説
者の加悦正昭さんら12人がボランティアを引き受けた。手作りの盤を持参
し、交代で学校に通う。対局時の礼儀作法を教え、勝てば「級」があがるな
ど楽しめる工夫をこらした。「囲碁そのものの魅力に加え、人とふれあう機
会もつくってくれた」と小林校長は話す。

   ●○●

 ブームの火付け役となった「ヒカルの碁」は、98年12月から「週刊少
年ジャンプ」(集英社)で連載が始まり、昨年10月からはテレビ東京系で
アニメも放映されている。16巻まで発刊された単行本は累計1400万部
に達するヒット作だ。

 日本棋院によると、アニメ放映が始まってから、「どこで碁を習えるの」
という子どもからの電話が殺到するようになった。「孫と打ちたい」という
お年寄りからの問い合わせもある。

 初心者向けの囲碁教室の参加者は軒並み倍増し、23日に全国61カ所で
開く予定の「ヒカルの碁ジュニア入門教室」には、8千人の参加が見込まれ
ている。日本棋院は「うれしい限り。ただ、子ども教室が少ないのは事実で、
受け皿づくりを進めたい」としている。

   ○●○

 仙台市のNPO法人「今、子供たちと碁を! 宮城の会」は、学校などに
ボランティアを派遣して子どもへの普及に取り組む。

 発足は98年。囲碁人口が高齢化の一途をたどることに危機感を持った愛
好家が集まり、仙台市内の全学校に「出前教室」を持ちかけたのがきっかけ
だ。小学校2校でスタート。現在は小学校や児童館など計12カ所で、15
0人の子どもたちが楽しんでいる。

 教室のひとつ、仙台市内の鶴ケ谷西児童館では、毎週水曜日の午後に教室
があり、小学生を中心に24人が通う。始めて2年目の小学校2年生村井哲
君は8級の腕前で、「勝っても負けても面白い」。教室以外の日も、児童館
で囲碁を楽しむ子どもが増えた。

 同会の文沢輝男事務局長は「子どもが囲碁を続けるかどうかは大人の役割
が非常に大きい」という。始めるきっかけになる「場所」がまず必要で、覚
えてから一局を打てるようになるまでが難しく感じるため、最初の指導がか
ぎになる。

 「入門段階さえ越えれば囲碁は一生楽しめる。普及に取り組む人が増えて
ほしい」と文沢さんは話す。

 ◇授業に採用する高校も

 囲碁や将棋を正規の科目にする高校もある。日本棋院によると、大阪府、
沖縄県、東京都の計7校で囲碁の授業がある。将棋は、日本将棋連盟のまと
めで沖縄で2校、大阪で1校。今春からは神奈川県でも1校増える予定とい
う。

 大阪市平野区の府立長吉高校では、両方を正課に採用し、2年目の今年度
は54人が将棋を、18人が囲碁の授業を選択した。

 将棋は週1回で2時間連続の授業。アマ四段の腕前の木谷紀彦教諭と伊藤
眞治教諭、日本将棋連盟の普及指導員の3人で担当する。プリントなどで勉
強したあと、生徒同士や先生との対局がある。

 職員会議で提案した木谷教諭は「対局では、頼れるのは自分だけ。我慢し
たり努力したりする側面が、長い目で出てくればと期待している」と話す。

 成績は授業にどれだけ真剣に取り組んだかだけで決めている。人気がある
授業で、放課後に残って対局を続ける生徒もいる。

 左木山祝一教頭は「いま学校に求められているのは、知識よりも考える力。
囲碁と将棋を通じて、前向きに考える姿勢を引き出したい」と話す。

(2002/03/22)



●第24回は矢代久美子四段の記事をwww.asahi.comより紹介します。

「来るか、女性棋士上位時代
  矢代四段が楊九段から金星 
     「海外では当たり前」の声も 」


 楊嘉源九段が次期の第28期名人戦リーグ入りを争う2次予選で、矢代久
美子四段に黒番中押しで敗退した。

 楊九段は台湾生まれの31歳。言うまでもなく知念かおり女流棋聖の夫君
だ。過去名人戦リーグに1期、本因坊戦リーグに3期在籍したほか、新鋭ト
ーナメント戦とNEC俊英トーナメントで優勝という実績がある。

 さらに、さる3月にあった第1回トヨタ・デンソー杯世界囲碁王座戦にも
日本代表として出場。「NHK杯に出ない代わりに国際戦で頑張る」と胸を
張った依田紀基名人がコロリと負けるなど、13人の日本勢が4勝9敗と惨
敗した中で、2回戦に勝ち上がったうちの一人という実力派だ。

 そんな強豪を矢代四段が破ったのだから、大金星である。矢代四段は初段
〜四段の低段クラスが戦う名人戦の1次予選で3連勝して枠抜けし、楊九段
とは2次予選の初戦。

 「枠抜けは本当に久しぶりなので気合が入ったし、運もよかったのです。
強い九段の先生に勝てたなんて、記憶にありません」と率直に喜んでいた。
一方の楊九段は「布石で読み違いがあって失敗しました」と、さばさばして
いた。

■男女の実力差、着実に縮まる

 矢代四段はプロ入り9年目の25歳。女流棋戦のタイトルをまだ取ったこ
とはない。だが昨年秋には、女流本因坊戦の本戦トーナメントで挑戦者決定
戦まで勝ち上がり、当時の小林泉美女流名人に惜しくも敗れ挑戦手合出場の
一歩手前で涙をのんだ。女流トップに肉薄している存在といえよう。

 つい最近まで女性棋士は男性棋士に実力は相当劣り、女性トップクラスで
もせいぜい先番でどうか、などと見られていた。

 ところが、97年のNHK杯トーナメントで小林泉美二段(当時)が1回
戦で中野寛也九段、2回戦で関西棋院の重鎮・橋本昌二九段を連破したあた
りから、女性陣の腕前も侮れなくなってきた。なにしろ全国のファン注視の
舞台で男性強豪が次々と敗れたのだから、事態が動いていることが一気に知
れ渡った。

 事実、98年には青木喜久代女流名人が本因坊戦の2次予選で依田紀基名
人を破ったし、小林泉美四段は99年、名人戦の2次予選で林海峰九段も撃
破している。

■世界に目を向けると……

 女性に負ける男性トップという点では、依田名人が先のトヨタ・デンソー
杯の1回戦で韓国の18歳の女流新鋭・朴シ恩三段に敗れたのが記憶に新し
いところだ。

 もっとも韓国には、男女とも参加する一般棋戦の国手戦で、初挑戦のゼイ
廼偉九段が挑戦手合三番勝負で第一人者のソウ薫鉉国手を破って頂点の一角
を占めた例がある。先の朴三段も韓国内で既に、国際戦優勝歴の多い曹九段
や劉昌赫九段を破ったことがある強豪と伝えられている。

 いまやトップクラスの実力をはじめ、棋士層の厚さ、若年層の強さでもこ
とごとく日本をしのいでいると見られる韓国囲碁界。女性陣の強さでも日本
をはるかに引き離していると見るべきだろう。若い女性棋士が男性九段を倒
したことに驚いていては、遅れた太平楽と海の向こうから笑われているかも
しれない。

(2002/04/18)




●第25回は井山裕太 新初段の記事を日経ネット・毎日新聞より紹介します。

「12歳の井山君白星デビュー・
      中学1年の棋士登場 」 


 この4月、囲碁のプロ棋士初段に12歳で入った井山裕太君=大阪府東大阪
市立孔舎衙(くさか)中1年=が15日、大阪市北区の日本棋院関西総本部で
の大手合で山本賢太郎三段(21)と対戦しプロデビュー。先番中押し勝ちし、
見事に初戦を飾った。

 プロ入りの最年少記録は、25世本因坊となった趙治勲王座の11歳。それに
次ぐ12歳は橋本昌二九段、林海峰九段、結城聡九段に続いて4人目。

 4月1日のプロ入りの日から1カ月半。今月24日に13歳になる井山君は
「早く打ちたかった。初戦で緊張したが、絶対勝ってやるという気持ちで
臨んだのでうれしいです」と笑みをこぼした。

 5歳で囲碁を覚えた井山君は小学2、3年と全国少年少女大会に2連覇。
3年の秋から、プロ入りを目標に院生となった。

 小学6年生の昨年11月、プロ棋士(日本棋院)を目指す関西総本部「院生
リーグ」で1位となり、プロ棋士入りを決めていた。

 そうして、プロ初戦を白星発進。「あこがれは趙治勲先生。いつの日か、
あのレベルになれれば」と棋士としての夢をはせていた。

[2002/5/15 共同]

   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 『 あこがれは趙治勲先生 夢はタイトル棋士 』

 この春、東大阪市の公立中学入学と同時に、囲碁のプロ棋士としてデビュー
する。人気漫画「ヒカルの碁」のヒカル少年さながらの昇進ぶりだ。プロ入り
最年少は趙治勲(ちょうちくん)王座(45)の11歳だが、歴代でも五指に
入る記録。

 昨年11月、プロ棋士を目指す卵「院生」のリーグ戦で、勝率9割と圧倒的
な強さで首位に立ち、プロ入り(入段)の切符を得た。「クラスの友達にサイ
ンをねだられびっくりしました」と、はにかむ。

 自室のランドセル、あどけない顔からは、想像もつかない才能を秘めている。
師匠の石井邦生九段(60)は「非凡な手筋で逆転力もある。数十年に一人の
逸材だ」と期待をふくらます。

 5歳の時、銀行員の父裕(ゆたか)さん(39)の囲碁テレビゲームに興味
を示し、アマ六段の祖父(70)が添い寝して聞かせる碁の話を“子守歌”に
育った。

 覚えて1年しないうちにアマ三段。小学2、3年時には少年少女全国大会で
連続優勝し、国内では敵なし。ところが3年の夏、中国遠征で一つ年下の子に
負け「悔し涙が出た」。勝負師の片りんを見せた。

 囲碁の勉強は毎夜3時間。脳こうそくで倒れてリハビリ中の祖父のためにも、
「強くなっておじいちゃんを喜ばせたい」。

 宝物は、プロ内定時にクラスメートから贈られた応援色紙。阪神と大阪近鉄
のファンで、「お笑い番組が好き」。さすが浪速っ子だ。

(毎日新聞2002年3月14日東京朝刊から)



●第26回は「張 栩 七段」の記事を日経ネットより紹介します。

  張 栩七段に聞く初タイトル狙う22歳、
     理想は「戦わずして勝つ」

 日本囲碁界のニューリーダーの1人、張栩七段の活躍が注目を集めている。
今春NHK杯囲碁トーナメントで初出場、初優勝を成し遂げ、5月にスタートし
た国際棋戦の「春蘭杯」もベスト8に進出している。本因坊、棋聖の両リーグに
在籍し、読みが深く、形勢判断に明るい張栩流の碁が全開しそうな勢い。昨年の
本因坊戦に続くタイトル戦登場も近そうだ。

(聞き手は日本経済新聞文化部 松本治人)

――5月上旬から北京に滞在し、テレビアジア選手権、春蘭杯と国際棋戦を連続
して打ちました。


 テレビアジア選手権は負けてしまったのですが、春蘭杯では1回戦を彭景華さ
ん(台湾)、2回戦を兪斌九段(中国)と戦って、ベスト8に残ることができま
した。準々決勝は年末です。日本勢では羽根直樹天元、結城聡九段と合計3人で
すね。

ただこの2局は、どちらも内容的には不満が残ります。1回戦はいきなりツブレ
に近い形勢になってしまいました。最後は彭さんのミスで救われた形です。2回
戦の兪斌九段との碁は、1回戦に比べるとマアマア(笑)。それでも反省する点
があります。まだまだ弱い、と思いました。

――国際棋戦を戦うコツは何ですか。

 特別なことはありませんが、7目半のコミは重いという実感はあります。
やはり黒の負担は大きいですね。序盤から仕掛けて、戦いになりやすい。1局1
局微妙な問題になりますが、持ち時間も3時間なので、国内の5時間の碁とは質
が全然違ってくるということもあります。

あと細かいことですが、対局開始の時間と昼食時間が微妙に違うことも案外影響
しますね。日本棋院では朝10時に開始して午前11時45分から45分間の休憩に入り
ます。国際棋戦では午前9時に始めて12時とか午後1時半に休み。当然ながら休
憩前までに国際棋戦の方が局面が進み、半分くらい打ってしまって今が勝負所、
といった場面もあります。精神的なペース配分を考えることが必要です。

――北京では中国棋院でも打ったとか。

 今回の遠征は、実はそれが楽しみでした(笑)。テレビアジア選手権から春蘭
杯まで日時があったので、年齢がだいたい似通った中国の若手4、5人と30局く
らい早碁を打ってきました。対戦成績は少し勝ち越したくらいかな。

いい刺激になりました。オフの時は卓球をしたり、買い物も。北京の街は近代化
が急速に進んでちょっと驚きでした。日本で買えて北京でも買えないものはない
感じで、人出などは日本よりにぎやかな印象でした。

――NHK杯の優勝から好調さを持続しています。

 しばらく花粉症に悩まされていましたが、だいぶ良くなったせいでしょうか
(笑)。
最近は「一生懸命打っているからうまくいく」とプラス思考で考えるようにして
います。NHK杯は選考基準が厳しくてなかなか出られなかっただけに、優勝は
うれしいです。

昨年は本因坊戦挑戦、竜星戦決勝まで行ったけれど、最後で勝てなかった。そろ
そろ何かで優勝したい(笑)とは思っていました。山下敬吾七段を追いかけてい
るので、準決勝の1局は印象に残っています。早い碁は比較的自信のある方です
が、楽な碁は1局もなかったです。持ち時間は30秒あれば直感で打てます。打て
ないときはスランプの時です。

――日ごろの研究はどうしていますか。

 ネットで早碁を打ったり、研究会に出たり。ネットの碁は朝一番とか夜中に打っ
ています。高尾紳路七段たちとの初台研究会は、移転して市ケ谷研究会になって
います(笑)。週に1回は必ず集まりますね。私も手合いのあとに寄っています。
自分の碁を並べ返したり、その週の大きな碁を皆で検討し合ったり、早碁を打っ
たりという活動です。

――師匠の林海峯九段が「読みが鋭く、形勢判断の明るい」という張栩流の碁が
全開している印象です


 自分の碁はよく分かりません(笑)。いろいろ碁の質が変わっているのではな
いでしょうか。少し時間の使い方はうまくなったかな? 理想は「戦わずして勝
つ」で、戦う碁風ではないのですが、結構頑張ってしまう。

――詰め碁も有名です。

 最初は解く方が好きだったのですが。特に時間を決めて作るのではなく、適当
に石を転がして、詰め碁の形を作っていきます。見た瞬間に「きれい」と思われ
るような形の美しさ、シンプルさ、筋の良さを追求していきたいと思っています。
将来はプロ棋士に読まれるような作品集を出したいと思っているのですが、何年
先になるか、分かりません。

――今年の目標はタイトル戦でしょう。

 まず残留を目指さないと(笑)。昨年の本因坊戦は自信になりました。1手1
手手応えを感じながら1局ずつ一生懸命打っていきたいです。体力はあまり自信
ないのですが、スポーツする時間もあまりない(笑)。時々市ケ谷の日本棋院か
ら自宅まで歩いて帰るくらいですが、これが40分程度かかって意外にいい運動に
なっています。

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張 栩七段(ちょう・う)
 1980年台北市出身。林海峯九段に入門し、90年日本棋院院生。94年入段。
2000年棋聖戦、本因坊両リーグに入る。昨年、王本因坊に挑戦したが3勝
4敗で敗れる。今年NHK杯優勝。

  [2002/06/06 掲載]



●第27回は23期ぶり本因坊に返り咲いた「加藤正夫プロ」の記事を
   毎日新聞、朝日新聞より紹介します。


「毎日の視点」
   真の実力があれば、必ず勝てるはず  


 22歳で本因坊に初挑戦してから33年がたつ。顔にシワは増えたが、15歳
若い王銘エン(おうめいえん)本因坊に体力では引けを取らないし、気持ちも若い。

 「史上最年長、初の50代本因坊」と呼ばれても、本人は「それ、僕のこと?」
だろう。

 第23期本因坊戦で加藤四段(当時)は1次予選から2次、3次予選を勝ち抜
いてリーグ入りを果たした。四段以下の棋士がこの快挙を成し遂げたのは57期
に及ぶ本因坊戦の歴史でただ一人。ここから加藤と本因坊戦の長い付き合いが始
まった。

 続く第24期では22歳の若さで林海峯本因坊(当時)に挑戦し、2勝4敗で
惜敗した。以来、加藤にとっては恵まれない時期を迎える。他棋戦で決勝進出や
挑戦権獲得を果たしながら、8回連続で最終戦に敗れた。これは連続準優勝の記
録。現在も破られていない。

 だが、加藤はスランプという言葉を信じない。 「スランプというのは、勝っ
てしかるべきだと思っているのに、なぜか負けてしまう時に使われる言葉だけれ
ど、それは違っているんだ。真の実力があれば、必ず勝てるはず。負けたらスラ
ンプなどと思わず、強くなる努力をするしかないんだ」

 七番勝負の最中に、所属する日本棋院の副理事長に就任が決まり、組織の運営
者の顔も持つことになった。普通なら「そんな激務は……」と思っても不思議は
ないが、改革に立ち上がった。対局も他のこともすべて全力投球だ。

(毎日新聞2002/07/12 )

     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

  「ひと」史上最年長で本因坊に
   返り咲いた熟年加藤正夫プロ  


 本因坊奪回の気負いはない。

 「最年長といわれてもまだ若造ですよ。67歳で他のタイトルを防衛した藤沢秀
行さんのような大先輩がいるのだから」

 温和で、勝負師の雰囲気を感じさせない性格。はったりも、飾り気もない。周囲
からは、「人柄のよさでは、いつもタイトル保持者」と言われる。

 しかし盤上では攻撃的で「殺し屋」の異名を取ったこともある。30歳から本因
坊を3連覇。鋭い狙いと戦闘力を武器に、相手の石を一気に攻め取っていた。

 壮年期からは柔軟さも身につけ、寄せ勝負もきわどく勝ち切るよう芸域を広げて
きた。だが、「ぼくは今も基本的に、中盤戦からの攻めが好きですね」。

 木谷実九段の内弟子修業を重ね、17歳でプロデビュー。以来、38年間、名人
2期、王座11期、十段7期と第一線で活躍する。

 ただ、4年前に十段を失って以降、タイトルとは無縁だった。むしろ近年は、弟
子で漫画「ヒカルの碁」監修者の梅沢由香里四段(28)に人気が集まり、「梅沢
さんの師匠」と見られることもあった。

 30日からは、日本棋院の副理事長に就任する。8年連続の赤字決算で累積赤字は
15億円を超す。囲碁ファンも高齢化が激しい。勝負師の手腕が運営でも発揮できる
か。

 大一番から一夜明けた12日。東京・八重洲にある棋院囲碁センターの新装オープ
ン祝賀会で、「負けたらみんなに励まされるところだったのですが、二重の喜びです」。
梅沢四段と並んで笑顔に包まれた。

(朝日新聞2002/07/13)

  <かとう・まさお=福岡県出身。石田芳夫、武宮正樹とともに
  木谷門下三羽烏(がらす)と呼ばれた。1男3女。55歳。>

 


●第28回は碁会所に関連する記事を読売新聞「岡目八目」より紹介
   します。


  「碁会所文化、維持存続へ妙手を」  

 碁会所が大切にしてきたお客というのは、昔も今もいわゆる"碁キチ"である。
初段以上の有段者で毎日碁石を握らないと眠れないといった方たちである。

 ところが残念なことにそういった方たちは高齢者が多く、年々減る一方である。
碁打ちにライフスタイルも変わってきた。碁は好きだけれど、週に一度打てば
十分、最近はそういった人がほとんどである。どうも戦略を間違えたみたいだ。

 全面禁煙にしてみたり、女性用トイレを用意したりして、お父さんだけでなく、
ファミリーで楽しめる場所を目指すべきだった。

 しかし、本当のことを言えば、毎日碁を打ちたい人は結構いるのである。ただ
昔なら出掛ける時の女房殿の苦情を「うるさい」と怒鳴れば済んだのだが、今は即
離婚という時代なのである。

 インターネットで碁が打てるようになったことも痛手である。初めは「パソコン
なんてわからん」と敬遠していたお年寄りやご婦人もマウス一つで誰でも簡単にで
きるということがバレてしまったのである。

 大の大人を一日遊ばせて千円程度という、ただでさえ異常に安い席料も値上げ
しにくく、碁会所は大ピンチである。私が東京都囲碁同業者組合に加入した20年
ほど前に200近くあった都内の碁会所は、今60あまり。従来型の碁会所はあと20年
もすると姿を消すかもしれない。

 考えてみれば、長年にわたって囲碁普及の先兵となって頑張ってきたのも、これ
ら碁会所の席亭さんたちである。彼らが満足な生活基盤を持てないばかりか、次代
に跡を継がせる気力も持てないとすれば、囲碁普及にとっては大きな痛手ではあろ
う。囲碁文化を守るためにどうすればいいか。「ヒカルの碁」という神風が吹いてき
た今こそ、妙手が求められている。

                 (大井囲碁教室主宰:山本達夫さん)



●第29回は「月刊囲碁クラブ1995年7月号」に掲載された日本棋院
  藤岡支部の堀江峯吉さんの記事を紹介します。


  「わが街の囲碁道場」  

  藤岡支部 堀江峯吉 氏

「先輩いい年をして碁も打てないのでは」という冗談めいた後輩のことばに誘わ
れて、初めて碁盤に向かい合ったのは三十六歳の時であった。当時わたしは群馬
大学附属中学校に勤務していた頃のことでしたが、碁のイロハから親切に教えて
もらった記憶は今でも生々しく脳裏に刻み込まれている。

 それから四十年余りの歳月が流れ去った今日でも、相変らず碁盤に向かってヘ
ボ碁を戦わせている。それにつけても年老いた現在までも生活の中にうるおいと
たのしみの光が甘受できるきっかけをつくってくれた後輩に対して深く感謝の意
を表している。

 生来何事にも凝り性なわたしは、その後すっかり碁のとりこになり、定石集や
各種の参考書を買いあさり、通勤電車の中でも読みふける、果ては寝ていても天
井が碁盤に見えてくるというほどの執着ぶりであった。

 碁を始めてから二年ほど経ったとき須藤斉氏という新任教師が赴任してきた。
彼は大学時代から囲碁部に籍をおき、現在では日本棋院の普及指導員を委嘱され
ている本格的な棋力の持ち主である。幸いわたしと同じ学年の生徒を担当したの
で、勤務時間終了後によく指導してもらった。しかし彼には七子置いてもなかな
か勝率があがらない日々が続いた。彼は決して碁のポイントを説明してくれない。
私も実戦を通して自ら悟ることの重要さに徹しようと考えていたので、あえて彼
に甘えようとはしなかった。彼とは職場転換のため一年間限りの交流ではあった
が、彼から得るところが大きかった。今でも前記の後輩と同様に深い交際を続け
ている。

 昭和五十三年三月、勤務四十年の教職生活を終えて間もない頃、藤岡市囲碁ク
ラブの事務局長を依頼された。会長の荻原俊氏は藤岡市の市長を勤められた方で
ある。若い頃から囲碁の愛好家で、市長在職当時から公民館の一室を囲碁室とし
て開放されている。この会が年額三千円という低額の会費で運営されているのは、
冷暖房つきで無料の公民館を囲碁道場として使用できるからである。

 この部屋は出入りしやすく造られているのでいつも満員の盛況ぶりであり日曜
日も祭日も休みなく利用されている。わたしが事務局長を担当した頃の会長は七
十余歳であったが、現在では九十歳の坂を越えている。それでも相変らず元気で
足繁く道場に通われ後輩たちを激励されている。来場される度ごとに、にこやか
な笑顔で気軽に会員たちに話しかけている会長の姿と、真剣に碁盤と取り組んで
いる会員たちの姿のとのコントラストは、まことにほほえましい風景である。平
成四年一月、囲碁の普及に功績のあった会長に対して、日本棋院から「普及活動
賞」が贈られている。

 囲碁の集団でありながら、日本棋院の支部的な存在を持ち得ないことは、碁を
愛好する者たちにとっては寂しい限りである。そこで同志が相集い棋友会を結成
しようと運動をはじめた。日本棋院から藤岡棋友会が認可されたのは昭和五十八
年六月のことであった。

 しかし、群馬県の状況を見ると棋友会という名称は十八支部の中で僅か二集団
に過ぎない。その総会に出席してもなんとなく肩身が狭い思いがした。その後な
んとか藤岡支部に発展させたいと努力し合ったが、なかなか規定の会員数に達し
なかった。それが昨年十月プロ棋士長原芳明六段の派遣指導を契機としてその機
運が高まり、棋友会結成以来十二年という長い歳月を経て三十六名の会員が獲得
され、平成七年一月一日付けで日本棋院藤岡支部が認可された。長年の夢の実現
に会員一同の喜びは大きい。役員も棋友会々長が支部長名となり事務局長が幹事
長と名称は変ったが、わたしたちはせっかくつくりあげたこの「虎の子」を長続
きさせ、大事に育てたいと考えている。またできれば百余名に膨張した囲碁クラ
ブ会員の半数が藤岡支部の会員となるよう今後とも会員の獲得に努力していきた
いと考えている。

 わが街の囲碁道場には、いろいろな人の人生が投写されているように思われる
ので、その一端を披露して稿を閉じたい。

○ 一目でも上達したいと願望して真剣に取り組んでいる人たち。

○ 碁盤に向かってたのしそうに、まだ若い者には負けないぞと張り切る退職し
  た公務員や会社員たち。

○ 毎日一刻でも碁盤に向かわなければと、道場通いが生活化している人たち。

○ ボケ坂をゆっくり下るためのクリニックと心に決めて通ってくる老人たち。

 道場に通う会員の心情はさまざまであるが、わが街の囲碁道場は、あたかも市
民の心をいやすオアシス的な存在でもあるという感じがしないでもない。

  (日本棋院藤岡支部幹事長)



●第30回は先月(10月)よりNHK囲碁講座の講師を担当する淡路修三
  九段の記事を「NHK囲碁講座10月号」より紹介します。


  「淡路語録があなたを変える」

「私がアマチュアの人にぜひ教えたいことが、たっぷり詰まった講座です」。

 10月からの新講座の講師は、淡路修三九段。平成2年以来、12年ぶりの登場だ。
 冒頭のワクワクする言葉に続けて淡路九段「今回は、アマチュアの人が一番欲し
がっているものを具体的にお話します。なにしろ、生きた教材が塾に大勢いますから」。

 「塾」とは、開校して5年目の、東京・新宿御苑にある「淡路塾」。ここに淡路九段は
週に2〜3日、多いときは5日も通ってアマチュア指導にあたっている。
 「淡路塾」の特色はいろいろあるが、中でもアマチュアに嬉しいのが局後の直接指導。
その日の対局を棋譜につけておくと、淡路九段が一手目から(!)手直ししてくれるのだ。
局後指導は一日に10局前後。1年では優に千局を超える。もしかしたら、アマチュアど
うしの碁を一番多く見ているプロ棋士かもしれない。

 「アマチュアの碁には共通の欠点がたくさんありますね」と淡路九段。欠点をいさめる
一流の「格言」があまりに的を得て面白いので、塾の生徒さんが書きとめ始めた。これが
「淡路語録」新講座のメインディッシュでもある。

 ここで、淡路九段の横顔を少しだけ紹介しよう。
 小学校にあがる前、淡路少年は、お父様が会社の囲碁仲間と打っているのを見て
自然に碁を覚えてしまった。するとたちまち、当時会社ぐるみで応援していた伊藤友恵
先生のところへ連れて行かれた。華やかな木谷門下生が現れる以前のことで「天才少
年現れる!」と、その頃まだ珍しかったテレビにも出演した。

 ご両親は「木谷門下に入れようか・・・」と迷われたものの「やっぱり、自宅から通える
伊藤先生にしよう」。淡路九段「それが甘さの原因ですね(笑)。中学生の頃には大鈍才
(笑)」。

 内弟子の厳しさにもまれた木谷門下生に次々と追い抜かされ、もう辞めようかと大学
の受験勉強も始めた18歳とときプロ入り。その後、「中退は嫌だったので、飲んで朝帰
りしながら(笑)大学(青山学院)の卒業証書だけはもってきました。

 淡路九段は、名人・本因坊・天元・碁聖戦で挑戦者に名乗りをあげた。タイトル奪取は
ならなかったものの、人気映画のヒーロー・ボクサーの「ロッキー」の異名をとる独特の
棋風がファンを魅了している。

 「ロッキーというのはね」と淡路九段。「戦いが強いのではなく、たたかれて倒れてか
ら立ち上がる力が強いんですよ。ただ、、最近は昔のようなしぶとさ、粘り強さより「形」
で打つようになりました。」。塾を始めてから、教えることと自分の打つことが解離しては
いけないなと思うこともあり、「碁が素直になったそうだ。

 「塾」に話が及ぶと、淡路九段の目じりがさがる。「熱心な塾生を見ていると、本当に励
みになります」。取材日も、その「熱心な塾生」たちから質問攻めにあっていた淡路九段。
お人柄だろう、一人一人に丁寧に指導するので、質問がやむことがない。

 さてさて、どんな「淡路語録」が登場するのか、それはこれから半年間のお楽しみだ。



●第31回は朝日新聞の土曜版be(11/23、11/30)に掲載されていた
  「一流を育てる」より菊地康郎氏の記事(上・下)を紹介します。


  「ヒカルたちを教える菊池康郎氏」

 囲碁(上)/「列の先頭を歩いてみろ」

 囲碁のとりこになった小学生が、棋士に成長する漫画『ヒカルの碁』
(少年ジャンプ連載)が人気だ。ヒカルみたいな少年たちが、実際に研鑚
(けんさん)を積む道場が東京にある。菊池康郎(きくちやすろう)(73)
が主宰する緑星(りょくせい)囲碁学園だ。

 「一流棋士の証明」といわれる囲碁の名人戦リーグ(朝日新聞社主催、9人)
に、2人の学園生が名前を連ねている。前碁聖の山下敬吾(けいご)七段(24)
と、前NEC俊英戦優勝者の溝上知親(みぞかみともちか)七段(25)だ。
 菊池は世界アマ囲碁選手権戦での優勝をはじめ、国内のアマ囲碁名人に最多
の9回就いた有数の現役アマ強豪である。

 アマがプロを育てるのも異例なら、52歳まで新日鉄のサラリーマンだった
経歴も異色だ。

 緑星囲碁学園は、東京の中野区と世田谷区に教室がある。

 山下は北海道旭川市の小学2年のとき、囲碁の小学生名人になり、3年生で
学園に入った。高校数学教師の父親を旭川に残し、母親らと上京した。史上最
年少の名人だったから、「都会の腕自慢たちと切磋琢磨(せっさたくま)すれ
ば、ぐんぐん上達するはず」と期待された。ところが山下は1年近く、足踏み
状態だった。

 学園では対局したり、プロの新旧の打ち碁を並べたり、詰め碁を解いたりで
腕を磨く。そんな山下に、菊池は当初、特段の指示はしなかった。

 旭川では、碁会所で打つほか、自宅トイレにまで張ってあった詰め碁を解く
など、課題を与えられて勉強してきた。菊池は思った。「このままでは一流に
なるのは無理だ」

 1年ほどたって、菊池は初めて諭した。「自分でやる気にならなけりゃ、ダ
メなんだ。人にいわれた通りに打つのでは『借り物』だからね」

 この言葉を山下は覚えていない。だが、負けず嫌いの性格に火がついたのか、
これを機に頭角を現し始める。一昨年に初タイトルの碁聖をとり、昨年は名人
戦リーグ入り。今月14日には3大棋戦の一つ、棋聖戦に初名乗りをあげた。

 溝上は今月、次期名人戦リーグ入りを果たした。溝上も長崎県佐世保市の小
学6年で小学生名人になったが、一人っ子でおっとり型。学園では常に控えめ
だった。中学生で学園のハイキングに出かけたとき、菊池が命じた。「列の先
頭を歩いてみろ。トップになるってのは、みんなの前に出ることなんだ」

 「囲碁を通じて人間形成を図る」がモットーの菊池流は、技術の伝授よりも
前に、自主性を身につけることに心を砕く。

 学園生160人は、伸び盛りの小学生から20代が中心だ。プロになってい
るのは山下を筆頭に17人。トッププロ養成だけが目的ではないが、能力ある
子供に頂点をめざすよう指導する。

 菊池はサラリーマン時代、囲碁だけでなく、賭けマージャンにも凝っていた。
東京から九州まで出かけて雀卓(じゃんたく)を囲んだこともある。「泥沼の
裏街道を歩いていたんです。その私が中年になって、『はっ』と気づいた。自
分を生かす本当の道は囲碁なんだと」

 一筋の道に打ち込む素晴らしさを、子供に伝えたい。核にあるのは、「何事
も自分で一生懸命に向かわなければ、モノにならない」という確信だった。

 学園が産声を上げて23年目。囲碁界で際だつ一流棋士輩出機関だった木谷
(きたに)道場を、しのげるのか。「ようやくツボミがついたところ」と言い
つつ、山下らと「天下取り」を狙う。=文中敬称略

(学芸部・荒谷一成)

〜キャリアプロのひとこと〜

短い言葉で的確に
 大事なことを「子供にはわからない」という人がいる。しかし、それはわか
りやすい言葉で伝えていないからではないか。子供の素直な心は受け入れる力
も大きい。もちろん頭ごなしに「しっかりやれ」と言うばかりでは、考え方も
行動の仕方もわからない。そんなときにキーワードが重要になる。「列の先頭
を歩いてみろ」。短い言葉で的確に伝えれば、子供だからこそ素直にわかるこ
とがある。(キャリア・コンサルタント 本田勝裕)

  ◇  ◇  ◇  ◇

 囲碁(下)/「日本は今や老大国だ」

 黒石と白石それぞれの陣地が盤上で整理され、黒番の山下敬吾(けいご)
(七段・24歳)の半目(はんもく)勝ちが確かめられた。黒い背広に紺の
ネクタイを締めた山下はそのときも、正座のままだった。

 今月14日夜、棋聖(きせい)戦の挑戦者決定戦が打たれた日本棋院(東京
都千代田区)の「幽玄の間」。午前10時の対局開始から昼と夕方の休憩を除
いて9時間以上、ひざを崩すことはなかった。最小差で惜敗した柳時熏(りゅう
しくん)(七段・30歳)が、あぐらをかいたままうなだれていたのと対照的
だった。

 山下はこう振り返る。「正座は緑星学園にきた小学3年生以来だから、普段
通り。別に苦痛ではない。囲碁は相手がいてのものなので、失礼のないように
心がけています」

 和室で対局する男性棋士のほとんどは、あぐらをかく。正座を続けるのは、
緑星学園出身者くらい。これは菊池康郎(73)の「礼儀正しく」という信念
に基づく。

 しつけ面では、学園生は教室に入るとき必ず、「こんにちは」とあいさつす
る。「太郎くん」と菊池から話しかけられると、即座に「はい」と答える。

 沈着な応接も肝要だ。学園生は対局前に「1分間瞑目(めいもく)する」と
決められている。

 菊池はこう解説する。

 「あいさつと返事は『基本のき』。どんな職場であれ基本動作です。上達に
は、背骨をピンとしたものが貫いていなければダメ。囲碁は『棋道(きどう)』
というように、武道とも通じる」

 菊池の指導法の特色に、個性に応じた物言いもある。

 学生時代にアマ本因坊になり、NEC社員を経てプロになった高野英樹
(五段・32歳)への指導は、理詰めで懇切丁寧だった。序盤の構想から石の
働き、手筋の解説と多岐にわたった。

 一方で、小学5年生から学園に通った女流名人の青木喜久代(34)は言う。
「私は『神経が太い』からか、きつい言葉でしかられましたね」

 彼女の碁はしばしば「こんなイモ洗い!」とけなされ、「検討」は序盤の数
手で切り上げられた。拙劣で、手直しにはほど遠い「田舎風」だと切り捨てら
れたわけだ。

 いま、2児の母親になった青木が述懐する。「先生は子供の性格に応じて指
導されていたと、親になって分かりました」

 菊池は「子供はストレートだし、自分自身の性格もまだ分かっていない。取
りあえずは、人前でしかると委縮する性格かどうか、情を刺激して発奮を促せ
ばいいタイプなのかとさぐってみる」という。

 教室のトイレや廊下の掃除、庭の花の手入れなども学園生が分担する。

 菊池自身は専修大の学生時代、囲碁で全国のトップを争う名うての強豪だっ
たが、社交ダンスで全国大会10傑に入ったこともある。そんな経験から、頭
だけでなく身体を使う大切さをわきまえているのだ。

 「日本の中だけで頑張っていてよい時代は去った」とは、若手の育成と日中
交流でも知られる名誉棋聖の藤沢秀行(77)の至言である。

 菊池も近年は10代、20代の若手を率いて韓国や中国を毎年訪れ、交流対
局に力をいれている。

 「日本は今や囲碁の『老大国』。若い層でははっきり、韓国と中国に抜かれ
ています。巻き返しは次の世代にかけるしかありませんからね」

 菊池の視線の先には、10年後、20年後の世界がある。
(学芸部・荒谷一成)

〜キャリアプロのひとこと〜

礼儀は品格に通ず
 私が少年野球のコーチをしていたころ、負けた試合後のあいさつを重視した。
ただ首をうなだれるのではなく、相手に頭を下げることは礼儀であり、自ら正
々堂々と戦ったことの証しだと考えている。礼儀は、人格形成にもかかわる。
菊池氏が指導する礼儀も、技術の育成だけでなく、指導を受ける人それぞれの
品格に通じる。ビジネス界や教育界で、この品格を説く企業や学校はあるのだ
ろうか。
(キャリア・コンサルタント 本田勝裕)

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